十字架を背負う
創世記 17: 1 – 7, 15 – 16、ローマの信徒への手紙 4: 13 – 25、マルコによる福音書 8: 31 – 38
四旬節が始まって二回目の主日です。四旬節はイエス様の十字架での死と三日目の復活を想う期節です。礼拝でもグロリアは歌唱せず、福音書朗読前はハレルヤ唱ではなく詠唱が歌唱されます。
イエス様はご自分がかかる十字架を背負ってゴルゴタの丘まで歩かされました。皆さんの中で実際に十字架を背負ったことがある方はいるでしょうか。十字架の体験展示をしている博物館もないと思いますので、いらっしゃらないかもしれません。実際にどのくらいの重さなのかを知りたいと思い、簡単に計算してみました。縦横15センチ四方の木材で適当な大きさの十字架を作ってみたとき、その重さはだいたい100から120キログラムくらいになることがわかりました。これでも少し小ぶりな大きさで考えたものです。こんなに重たいものをイエス様は背負って歩かれたのでしょうか。十字架の端を地面につけて運んだとしても、とてもつらいものだったのではないでしょうか。
聖壇の横にイエス様の弟子たちのシンボルが飾られています。どれが誰のシンボルなのかご存じでしょうか。第一礼拝では時々説明があるので、結構小学生の子どもたちは知っています。私は半分くらいしかわかりません。弟子たちの多くは、迫害を受けて殉教しました。シンボルの中には殉教の際に使われた道具が結構使われています。左側の二番目トマスは槍が描かれていますが、彼は槍で刺されて殉教したと言われています。その下アルファイの子ヤコブはのこぎりが描かれていますが、神殿から突き落とされ石で打たれた後にのこぎりでバラバラにされたと言われています。十字架が描かれているものもいくつかあります。右側の一番上ペトロは逆さの十字架で殉教、四番目のアンデレはアンデレクロスと呼ばれるX形の十字架で殉教、その下のフィリポも十字架で殉教したと言われています。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とイエス様は言われました。十字架は死刑の執行に用いられていたものです。その言葉からはとてつもない苦難を想像してしまいます。100キログラム以上の重さのものを背負った状態で、イエス様の後をついて行かなければならないのでしょうか。
今日は私たちが十字架を背負うということがどういうことなのかを考えていきたいと思います。
福音書の日課の冒頭は、イエス様が殺され、三日後に復活するという場面から始まります。「はっきりとお話しになった」と書かれているので、ほのめかすような言い方ではなく必ず起こることとして話されたのでしょう。それを聞いた弟子たちは混乱しました。弟子たちはイエス様のことを、自分たちを苦しめているローマからユダヤを解放してくださる方だと考えていたからです。ペトロは即座に行動しました。イエス様をわきに連れて行ってイエス様をいさめ始めたのです。弟子がその師匠をいさめるのです。普通だったら「イエス様、そのご発言はちょっと…」と遠慮がちに話すところだったでしょう。「いさめる」と書かれているので、もしかすると「イエス様、そんなことを軽々しく言ってはいけません。ここまで教団が大きくなっているのですから、そんなことを言うと弟子たちがみんな離れていってしまいます」というような言い方だったのかもしれません。人間が神に対して意見をする、ということは聞いたことがありません。第一の日課に出てくるアブラハムも、神様と交渉することはありましたが、神様に意見したということはありません。弟子たち、特にペトロは思わず意見せずにはいられないようなことだったのでしょう。そんな弟子たちに対して、イエス様は「サタン、引き下がれ」とさらに厳しいことを言われます。さらにイエス様は言います。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と。人間のことを思っている、とは自分の都合だけを考えているということです。ペトロたち弟子たちは、これまで多くの場所で宣教をしてきて弟子たちも増えてきた、いよいよ集まった人たちと一緒にローマを倒すための戦いを始める時期が近づいてきた、と考えていたのだろうと思います。そんなときにイエス様から自分は必ず殺されると聞いたので、そんなことが起こってはいけない、と危機感を抱きました。
イエス様がローマからユダヤを救う救い主だ、と考えていたのは弟子たち側の考えでした。イエス様が言われたのは、「殺されること、そして復活すること」です。弟子たちはイエス様の言葉の前半部分の「殺されること」だけを聞いて「復活すること」は聞いていないかのようです。「殺されること」は現実的なこととして危機感を持ち、「復活すること」はまるで現実的なことではない、理解できないことだったのです。自分がわかることには反応し、わからないことは聞かなかったことにする。人にはよくあることです。自分の思い通りにならないときは、思い通りにするため相手にいろいろと文句を言ってしまう。これも人にはよくあることです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」との言葉は「自分の勝手な思いは捨てて、ただイエス様の言葉をしっかりと聞きなさい」と言われているのです。
第一の日課、第二の日課ではアブラハムのことが書かれています。神様は99歳と高齢になったアブラムのところに現れ契約を結びます。この契約の際に、アブラムはアブラハムに、妻のサライはサラに名前が替わります。アブラハムは諸国民の父に、サラは諸国民の母になる、と神様は約束されます。第二の日課では、そんなアブラハムのことをこのように取り上げています。「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。」アブラハムも人間ですから、いろいろと迷いは持っていたと思います。なかなか子どもを授からなかった彼は、サライの勧めるまま女奴隷にイシュマエルをもうけます。サラから生まれたイサクをいけにえとして捧げるよう命じられたときも、迷いがなかったとは言えないでしょう。けれどもアブラハムは、神様を信じてイサクを捧げようとしました。神様を一番と考えるアブラハムを、神様は義と認めたのです。パウロはさらに書きます。「『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。」イエス様を十字架の死から復活させた神様を信じれば、私たちも救いを与えられると断言しています。
「自分の命を救いたいと思う者」は、自分の思いだけですべてを解決しようとする人のことです。そのような人は神様から義と認められることはありません。私たちに求められていることは、自分に都合が良いことだけを考えることではなく、そんな自分を捨てて十字架で死なれたイエス様のみことばを信じて、イエス様に従うことです。イエス様は言われます。「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」人の命は貴いものです。今日も戦争が行われているウクライナやガザで人の命が失われています。失われたものを取り戻すのは、人間の力ではできません。私たちは日々罪の中で過ごしています。そんな私たちを、イエス様は十字架ですべての罪を負ってくださることによって、救いの道に導いてくださいました。
礼拝堂はその正面に十字架がかけられています。私たちにイエス様と同じ十字架を背負いなさい、とかけられているのではありません。自分勝手な思いを捨て、私たちのために十字架に架かり、復活することで私たちの命を買い戻してくださったイエス様を見上げ、イエス様を信じることが、私たちに求められているのです。新しい式文にまだまだ慣れていないとは思いますが、十字架を見上げてイエス様を思い、四旬節そして復活祭への日々を過ごしていきたいと思います。