2008年2月3日 松岡俊一郎(牧師)

主の変容主日

 今日の福音書の日課の出来事から一週間ほど前のことです。イエス様は弟子たちに、自分が十字架にかかって死んでしまうとお話になりました。受難予告です。それを聞いて驚いたペトロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことはあってはなりません」とあわててイエス様の言葉を打ち消しました。ところがペトロは「サタンよ、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者」と逆に叱られてしまったのです。イエスさまが十字架にかかって死ぬ、それだけでも弟子たちの間には動揺が走り、それを心配したペトロが叱られてしまい、弟子たちはどうしていいかわからなくなり、このことがあってから彼らはすっかり元気をなくしていました。
イエス様は、今日、弟子のペトロ、ヤコブ、その兄弟ヤコブを連れて山に登られました。すると突然、イエス様の姿が変わり、顔は輝き、服も光のように白くなりました。これには弟子たちは大変驚きました。でも驚きはそれだけではありません。そこに二人の人が現れ、イエス様と何か話しているのです。弟子たちは、それが民族の偉大な指導者モーセと有名な預言者エリアだと感じました。そこでペトロは心が躍り「イエス様、わたし達がここにいることはとてもすばらしいことです。ここに小さな小屋を三つ作ってずっとここにいていただきましょう」と言いました。しかしイエス様はそれには何もお答えになりませんでした。そうするうちに、真っ白な雲がひろがり何も見えなくなりました。すると声が聞こえてきました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」突然の天からの声に、弟子たちは恐ろしくなり震えてふさぎこんでしまいました。するといつの間にか雲が晴れ、いつものイエス様が弟子たちの肩に手を置いて、「起きなさい。恐れることはない。」と言われたのです。山を下るとき、イエス様は「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」と口止めされました。
イエス様の旅は、十字架にかかられるためにエルサレムに向います。十字架にかかって死ぬということは、誰にとっても恐いことですし、信頼するイエス様が死んでしまうことは、弟子たちを不安に陥れました。イエス様はそのような弟子たちの不安を打ち消すため、ご自身の神としての姿を現わされたのです。
旧約聖書の日課には、モーセがシナイ山に上り、神様から十戒が刻み込まれた石板をいただき、民衆のもとに降りてきたとき、その顔が輝いていたと記しています。神様の栄光がモーセを通して民衆に現わされたのです。今日のイエス様の変容の姿もまた神様の栄光を表しています。しかしイエス様の栄光の真の姿は、光り輝くことによって表わされる栄光ではありません。天からの声があった後、イエス様は元の姿に戻っておられました。イエス様は弟子たちが恐れて顔を伏せてしまわないといけないような姿ではなく、顔と顔を合わせて相まみえることのできる姿で、私たちの前に立ってくださるのです。そしてそれは、十字架という愚かな手段の中に現わされます。十字架による罪の贖いこそがイエス様を真実に輝かすのです。
わたし達は、弟子たちが見たようなイエス様の光り輝く姿を見ることはできません。しかし、イエス様は私たちを救うために十字架にかかって死に、三日目に復活されたということを、聖書を通して知っています。見ることはできなくても、もう知っているのです。知っていて、それを信じるときには、それはもう見たのと同じです。