イエスが近づく
マルコによる福音書 1: 14 – 20、ヨナ書 3: 1 – 5, 10
先週の日曜日には、わたしたちが教師試験、および任用試験に合格したことを報告させていただきました。その試験で、問われたことの一つに召命観というものがあります。それは牧師を志していくにあたって、どのような神様の導きがあったのかという問いです。神学校では、いつでもそのことに向き合います。しかし、思えば大岡山教会ではそのことを話す機会もありませんでしたので、本日は召命観についての私の証しも含めながら、説教をしたいと思います。
私が神学校に入学したのは、神様の愛を、イエス様の恵みを、分かち合いたいからです。それはまず、私自身が神様の愛とイエス様の恵みに与って生かされてきたからです。私は、牧師家庭に生まれましたので、胎児の頃から教会に通っておりました。当時の私にとって、信仰はとても当たり前のものでした。これまでの私の人生で一番信仰深かったのはこの頃です。というのもこの後、私は信仰生活につまづきます。
思春期を迎えるころ、私の信仰心は揺らぎます。思春期特有の自らのコンプレックスや、友人関係の悩みなどもあり、日々の苦しみを取り除いてくれない神様に、私は愚痴をいい、絶望を感じていました。
そんな私を、再び神様の方へ向き直させてくれたのは、旧約聖書の詩篇22編の言葉です。「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」まさしく嘆きの歌です。しかし同時に、詩篇22編は賛美と信頼の歌でもあります。「だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。」この歌は、絶望しながらいつも愚痴り続けてきた私のうちにも、神様への信頼があってよいのだと伝えてくれたのです。それは私にとって大きな慰めでした。私の献身は、この時の気持ちを多くの人に伝えたいと思うことから始まりました。
そのあとも、大学の後輩が洗礼に導かれたとき、宣教の働きに巻き込まれ、用いられる喜びを知りました。また、母教会の役員会で牧師が変わり、次に招聘する牧師を相談している時に背中を押すような声を頂きました。
しかし一方、果たして自分は牧師として本当にふさわしいのだろうかと、思いとどまることがあります。牧師になるには未熟で足りないと思う自分がいるのです。按手を控えてなお、私のうちには葛藤が残っています。
そこで本日の福音書をみると気づかされることがあります。これはイエス様がガリラヤでの宣教を始めるその一番最初に、4人の漁師を弟子にする箇所です。イエス様がペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネと出会い、ご覧になって、呼びかけます。すると漁師たちは直ちにイエス様に従い、ついていきます。
しかし、こんなことがあり得るでしょうか。おそらくどんなに楽観的な人でも、なんの考えも無しに知らない人についてはいきません。漁師たちも葛藤したのではないでしょうか。ここには本来ならあるべき弟子たちの葛藤が抜け落ちているように思うのです。しかしそれはマルコにとって最も重要なことが、弟子たちの葛藤ではなかったからでしょう。マルコが強調していることは、ただただ「イエス様が近づき、ご覧になり、呼びかけた」ことなのです。
そこに弟子たちの葛藤や判断は関係ありません。どうでもいいということではありません。もちろん、私たちは悩み、葛藤するうちに信仰生活を続けています。私たちが、イエス様の弟子となること、従って歩むことはその葛藤も抱えたままも従っていくことではないでしょうか。
第一朗読ではヨナ書が読まれました。主がニネベにいくように言われた時、ヨナは最初は逃げ出そうとしました。主に従うことと自らのことに悩み、葛藤したのです。それでも主はヨナを召し、従うものとされました。聖書に記されるのは、正しく主の声を聞いたヨナの姿だけではありません。はじめにヨナに声をかけた時、逃げ出した時からヨナが主と共に歩む道は始まっていたからです。
きっと漁師たちも葛藤を抱えながらついて行きました。しかしマルコは「二人はすぐに網を捨てて従った」と記しています。つまり葛藤を抱えたままでも、むしろ葛藤を抱え出したその瞬間からすでにイエス様は漁師たちを弟子とし、イエス様に従うものとしてくださっていたということだと思うのです。
私の話から始めましたから、きちんと決着をつけましょう。私は今、これからの牧師の道を主に従って歩んでいくことに不安も感じているし、葛藤も抱えています。しかし私が神様の恵みを分かち合いたいと思ったその時から、そのずっと以前、子供心にみ言葉を聞いていた時から主の呼びかけは起こっていたと信じています。
イエス様は他の聖書の箇所でも、弟子たちに「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と言われます。私たちが選んだかのような働きは実は私たちでなく、神様が選んでくれているのです。なんと心強いことでしょうか。
イエス様は今、み言葉を通してあなたに近づき、ご覧になり、呼びかけています。牧師だけが弟子の歩みではありません。今ここでも、イエス様はあなたに近づいているわけですから、み言葉を受けたものとして日々の生活を送っていくことこそ、イエス様の弟子として歩むこと、主に従っていくことなのです。あなたはイエス様の弟子にされました。イエス様はあなたと共に歩かれています。