天の聖徒たちと共に
マタイによる福音書 5: 1 – 12
幸せの内容は時代によって違います。旧約聖書の世界の人々にとっての幸福は、神様の祝福を得ることでした。それは長寿かどうかではかられ、長生きをする人は神様の祝福をいただいていると考えました。しかし現実はどうかというと、医療も生活環境もよくない時代です。多くの人々は短命であったと思われます。そこで彼らが考えたのは、個人の命は短くても民族が存続することが神様の祝福と考えました。そのためには子孫繁栄が一番の願いとなったのです。現代の私たちの幸福の内容は何でしょうか。長寿か、そう思う人もいると思います。すでに十分長寿社会だと思いますが、それでも医療はどこまでも進化を続け、テレビではサプリメントの宣伝があふれるほどです。夫婦関係や家族関係が円満であることを望む人がいると思いますし、働き盛りの人は仕事のやりがい、若い人の間には少しでもお金儲けをしたいと思う人もいるかもしれません。今年はコロナ禍にあってかつてないほどの経済的な不況や貧困で、少しでも衣食住が満たされたいと願うのは当たり前のことかもしれません。
しかしイエス様が言われる幸せとは、私たちが考えることとはだいぶ違うようです。
イエス様が「心の貧しい人々は幸いである。」と言われます。この貧しさには二つの意味があります。ギリシャ語の貧しさは物質的な貧しさです。そこでマタイは「心の」という言葉を加えて、精神的な貧しさを表そうとしました。しかしだからと言って、一般的な意味での貧しさを無視しているわけではありません。貧しさが幸いなわけはありません。貧しさゆえに希望を見出せず不安の中に押しとどめられ、味わわなければ苦しみはたくさんあるのです。経済的な貧しさは様々な貧しさを生み出します。貧しさの連鎖から脱却することは容易ではありません。そこで人は豊かさを追求する生き方を求めます。少しでも豊かな暮らし、おいしいものを食べ、きれいで十分な住まいを求め、ゆとりのある生活を求めます。そのために必要なものは経済力です。お金と財産、これが私たちの目標となるのです。しかしお金と財産が中心となる時には、人の心は神様から離れてしまいます。人は神と富とに兼ね仕えることは出来ないからです。貧しい人はその貧しさゆえに金や財産に頼ることができません。神様に頼ることしかできないのです。だからこそ貧しい人は幸いであり、天の国は彼らのものなのです。実に逆説的です。人が幸せなことは、いつなくなるかわからない金銀財宝に頼ることではなく、決してなくなることない神様に頼ることであり、神の国に入れられることだからです。神様に信頼することが重要なことですので、聖書が豊かな人をすべて不幸だと断じているわけではありません。その豊かさが神様の恵みのゆえに与えられていることを自覚し、だからこそそれを分かち合うことに心を砕いているならば、その人は神様に堅く結ばれているのですから不幸であるはずはなく、幸いなのです。
「悲しむ人は幸いである」とも言われます。悲しいことなんか、ないに越したことはありません。しかし人は悲しみに出会います。小さな悲しみから大きな悲しみいろいろ経験しますが、一番の悲しみは人との関係の破れ、あるいは別れでしょう。家族との断絶、友人とのすれ違い、悔しさや悲しみ、後悔など様々な思いが襲ってきます。中でも私たちが経験する一番大きな別れは、死による別れでしょう。小さな悲しみであれば、家族や友人の支えや励ましが力になるでしょう。しかし死という絶対的な別れに際しては人の力は無力です。死による別れの時は、友人たちの慰めの心、愛の心で満ち溢れますが、そこにある深い悲しみと絶望を本当に慰め、癒すことが出来るのは、神様の愛だけです。死という大きな力の前では人の力は及ばないのです。それに対抗し打ち勝つことが出来るのは、死に勝利し、復活されたイエス様の愛だけが、死がもたらす深い悲しみを癒すことが出来るのです。人が超えることのできない死をただ一人克服されたイエス様の愛が私たちには必要なのです。そのイエス様が「その人は慰められる」と言われるのです。
「義に飢え渇いている人々」も同様です。今の社会の現実は公平・平等ではありません。格差があり差別があります。確かにそれはすぐになくなるものではありません。しかし聖書は落胆しないように、その神の正しさが満たされる時が来ることを約束するのです。そして、そんな悲しい世界の仲であっても憐みの心をもち、心を清く保つ人は神様と出会うことができるのです。今日の使徒書の日課のヨハネの黙示録は、終末後の神の世界の姿を描いています。「彼らは大きな苦難を通ってきた者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」小羊の血とはまさにイエス様の十字架の血で、人々はキリストの血によって清くされているのです。そしてそんな彼らは「もはや飢えることも乾くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭われるからである。」悲惨なこの世の中にあっても、神様に希望をもち、神様の正しさと清さを旨として歩む人は、すでにその神の世界に生きていると言っても過言ではありません。そしてさらに積極的に平和を実現するために働き、神様の義さを行うという理由で迫害される人も神の子と呼ばれ祝福されるのです。
今日私たちは召天者を覚えて礼拝をしていますが、神様を信じ従うことは生と死の垣根を越えたことです。生きている者も死んだ者も、生と死のすべてを御支配される神様のみ前で生きるのです。それはこの世での別れを経験した私たちにとって大きな慰めです。また、これから別れを経験する者にとっても希望です。私たちの悲しみキリストの愛によって慰められ、喪失感で空っぽになった心も愛によって埋められるのです。