神さまを必要とする人を招く
マタイによる福音書 9章9節~13節、18節~26節
イエス様はガリラヤ湖畔の町カファルナウムにおられます。湖のほとりを歩いておられると収税所がありました。カファルナウムはヘロデ・アンティパスの領地でしたが、フィリポの領地との境に位置していましたので、領地境を通る人たちから通行税をとるために収税所が設けられていたのです。そこでは仕事として運ばれてくる商品だけでなく、普通に通る人々の持ち物をチェックして徴税人たちはそれに自由に税をかけていました。彼らは決まった額を領主におさめ、それ以上は自分たちの儲けにしていました。ユダヤ人でありながら、ローマ帝国の手先として働いていたこともあって、ユダヤ人たちの間では忌み嫌われていました。それは律法を犯す人々と同等に罪人として扱われていました。彼らは自分たちが嫌われ、罪人として見られていることを知っていましたから、どうせ嫌われるのであればしっかり儲けてやれと厳しく取り立てていたに違いありません。そうすればますます人々から嫌われ、民衆と徴税人たちとの間にはもはやどうすることもできないほどの溝があったのです。そのような仕事を徴税人たちが好き好んで選んだとも思えませんし、仕事に対する誇りや喜びなどを感じることもなく、無味乾燥な日々のなか、わずかな儲けを数えることだけが彼らの生きがいだったと思います。
イエス様はそこに座っていたマタイに目をとめ、「わたしに従ってきなさい」と声をかけられます。イエス様のまなざしは他の人が徴税人を見る視線とは違っていました。人々の視線は軽蔑と嫌悪であったに違いありません。しかし、イエス様のまなざしは、マタイの喜びのない毎日への空虚感、人への不信、孤独を紛らわす金銭への執着、そのような心に向けられていたのです。それゆえに、イエス様の「わたしに従ってきなさい」という一言は、彼の閉ざされた心を打ち破ったのです。彼はすぐに立ち上がりイエス様に従いました。そこには何のためらいもありませんでした。イエス様の言葉には、何の約束も、これからの予定も見通しも何もありません。しかし彼にとってはそのようなものは必要ありません。人とは違うまなざし、自分を受け止め迎え入れてくださるその心だけで充分であったのです。
事実、彼が立ちあがって従って行った先は、他のどこでもないマタイ自身の家でした。彼の日常であったのです。しかしそれは明らかに今までとは違っていました。そこにイエス様がおられたからです。そしてそこにはマタイと同じようにイエス様に迎え入れられた他の人々、罪人たちや弟子達が一緒だったのです。
そこにはその光景を面白く思わない別の視線がありました。ファリサイ派の律法学者たちです。彼らは弟子達を呼び寄せ「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問いただします。最初に徴税人が律法を犯す罪人と同列に扱われていたことを申しあげましたが、徴税人たちはその仕事上異邦人たちとも日常的に接触していました。しかしこのことは律法を広く解釈し当てはめるファリサイ派の人々にとっては、祭儀的にも不浄のことであり、許しがたいことであったのです。ましてや、イエス様が人々から人気があったことも彼らにとっては面白くなかったに違いありません。
御存知のようにファリサイという言葉は「分離された者」という意味をもっています。祭儀的に不浄に染まりやすい一般民衆とは分けられた存在という意味です。つまり平たく言えば、あなたとは違うという意味です。そこには誇り、自信、自慢する気持があります。しかしそこには、高慢な気持ちがありますし、他者への裁きや批判、軽蔑の気持ちがあります。ですから、罪人たちと一緒に食事をされているイエス様への視線はそのような気持ちが込められていたのです。
ファリサイ派の律法学者と徴税人マタイや罪人たちとの間には、全く違う気持ちと立場が交錯しています。一方は、社会的に特別扱いされ、自分はそれにふさわしいと自負していた人々、いわば勝ち組です。他方は、いつも軽蔑と嫌悪のまなざしを向けられ、自分の存在や生活、仕事に誇りや自信を持つことのできない人々、負け組です。少なくともこのカファルナウムでの出来事では、イエス様は罪人たち、負け組の人々の食卓に着かれました。それは、彼らが感じていた満たされない思い、辛さや苦しみ、不安や恐れ、空しさや孤独をイエス様が引き受けるためにほかなりませんでした。ファリサイ派の人々には、罪人とされていた人々の気持ちなど分かりませんでしたし、分かろうともしませんでした。自分たちは違うと考えていた、人々から離れようとしていたからでした。しかしイエス様は違いました。イエス様のほうから近づいて行かれたのです。漁師であった四人の弟子達の場合も、今日のマタイにしても、彼らのいた場所、座っていたところにイエス様が近づき、招き、彼らの食卓につかれたのです。罪人の彼らを引き揚げよう、引き寄せようとされるのではなく、自分から彼らのところに行かれたのです。この方向、ベクトルはイエス様においては、そのお誕生から十字架に至るまで貫かれています。そのご生涯の中に時折かいま見られる栄光のお姿があったとしても、次の瞬間、また貧しさと共に、弱さと共に、罪人と共におられるのです。そしてもっとも弱い姿として十字架にかかり、その十字架によってすべての罪を引き受けられたのです。
今日私たちは、ファリサイ派の人々と罪人とされたマタイを対比させながらイエス様の愛とまなざしを見てきました。しかし、最後に私たち自身のことを考えてみたいと思います。それは私たちをファリサイ派的な人、マタイのような罪人と分けるのではありません。そうではなく、一人の人の中に自信満々で高慢な自分がおり、同時に自信を持つことのできない劣等感の塊のような自分がいるのを知るのです。またある時は社会的に誇れるような立場に就く時があり、しかし突然そのような地位から転落することもあるのです。イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。この言葉は文字通りの意味ですが、人を単純に色分けして考えるべきではないと思います。もちろんイエス様の招きと十字架の救いが、社会的な弱者に向けられ彼らと共にあることは間違いありません。しかし先ほど申し上げたように、私たちは誰も勝ち組みであり続けることはできないし、正しい人であり続けることはできないのです。人から見て何不自由なく豊かであるように見えても、人の心の中がそうであるとは限りません。むしろその反対のことが多いのです。目に見える物質的な豊かさは、心の豊かさとは比例しませんし、むしろ貧しさや救いを求める心が、神様の愛を知るからです。イエス様はマタイの心の叫びを聞かれました。そして彼を招き、彼の食卓に着かれました。私たちもイエス様を求め、私たちのところに来ていただきたいと願うものです。