イエス様と話した三時間
ルカによる福音書 24: 13 – 35
今の時代、インターネットはなくてはならない存在になっています。電車に乗って席に座っている人を見ると、半分以上の人がスマートフォンを手に、ゲームをしたりニュースを読んだりSNSを見たり音楽を楽しんでいる姿があります。これらの人たちは、みなインターネットを利用しています。
何か情報を取り出したいとき、インターネットは非常に便利な道具です。電車に乗っている少しの時間でもいろいろな情報を見ることができます。気になる言葉があると、その言葉を検索し、検索した中からわからない言葉が出てくるとその言葉も検索する。そんなことが簡単な操作で私も何か調べ物をするときには、まずインターネットを検索するところから始めます。内緒の話ですが、説教を考える時もインターネットで他の教会の説教を読んでみたりします。
インターネットの検索機能は便利なものですが、便利なようで余計な機能もあります。例えばここにボールペンがありますが、ボールペンにはどんなものがあるか調べ始めてみます。いろいろと検索されたものを読んでいくとなるほどなるほどと満足します。しかしその内に「あなたが探しているものはこれではないですか?」とボールペンと同じく筆記用具である万年筆やシャープペンシルのことを聞いてきたりします。検索機能は無料で使えますが、無料というものは広告が付きものです。「あなたへのおススメはこれです」というような広告が画面にたくさん出てくるようになります。またSNSを見ても筆記用具の広告投稿が目に付くようになり、ここまで来ると有難迷惑な気もします。
人間の特性として、自分が考えていることと似た考えのものに共感をするというものがあります。検索をしていくとどんどん自分と似た考え方の文章が出てきて、ますます自分の考えが正しいのではないかという気持ちになってきます。インターネットを常に見ている人は、割と考えが凝り固まってしまっている人が多いのではないかとも思います。
もう一つの人間の特性として、自分の考えと違う考えはなかなか受け入れられないというものがあります。今お話ししたこととちょうど逆のことです。例えば、私が「何々は体に良い」という考えを持っているとき、「何々は体に悪い」と主張する人と論戦をしてもなかなか共感することはできません。「あなたはそう言うけれど、本当はこうなんじゃないですか?」と相手を自分の考えに持っていこうとすることがよくあるのではないでしょうか。
今日読まれた福音書は、イエス様の復活があった日にエルサレムからエマオという村に向かう二人の弟子たちが復活されたイエス様と道々議論をする場面が描かれています。自分たちをローマの支配から導き出して自由を与えてくれると期待しているイエス様が来られると聞いて、胸を膨らませながらエルサレムに行きましたが、あろうことか自分たちと同じユダヤ人によって十字架につけられて死んでしまったのです。希望に満ちていた二人は、たまらない絶望感をもって重い足取りでエマオの村に向かっていたことでしょう。自分たちの気持ちが整理しきれずに、エルサレムで起こった出来事について暗い顔をして話し合いながら歩いていたことが書かれています。
そんな時にどこからかイエス様が二人に近づいて話しかけます。二人はイエス様であることに気がつきません。二人にとってイエス様は十字架に架かって死んでおり、もうこの世界にはいないという認識でした。イエス様にエルサレムの出来事を説明している言葉でも「仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」という言葉だけで、天使たちが告げた「イエスは生きておられる」という言葉は信じていません。墓からいなくなったのは、誰かがイエス様のなきがらを持ち去ってしまったのだと信じているような書かれ方をしています。
イエス様は、二人にご自分について書かれている聖書の箇所を説明し始めました。イエス様はもう死んでいると考えている二人は、「あなたはそんなことを言うけれど、イエス様はもうこの世にはいないのだよ」と言い返したりしていたと思います。なにしろ二人の頭の中では「イエス様はもういない」という考えでいっぱいだったからです。しかし少しずつ二人の考え方は変わってきたようです。イエス様の話を聞いているうちに、彼らの中には「イエス様はユダヤをローマから解放するためにエルサレムに来たのではなく、十字架に架かることによって自分たちを罪から解放し、復活によってそのことを示された」のではないかという考えが少しずつ芽生えてきたようです。エマオの村に到着して、なお先へ行こうとするイエス様を無理に引き止めたのは、もう少しイエス様と話を続けたい、イエス様はただ死んでしまったのではないと考えが変わってきたからです。
今日の説教題は「イエス様と話した三時間」としました。エルサレムからエマオまでは60スタディオン、距離にして約11kmです。大人の足でゆっくりと話しながら歩いたとすると4時間程度かかります。イエス様は途中から合流しましたから、イエス様と話をしたのは3時間程度ではないかと考えてこのような説教題にしました。二人が考えを変えていくのに要した3時間は深い絶望に包まれていた頭にとっては短い時間だったように思います。それだけイエス様の言葉に力があったのだと思います。
イエス様は聖書のどの部分から二人の考えを変えさせるような力強い話をされたのでしょう。今日の福音書の中には書かれていません。インターネットで検索をしてみると、このような箇所が説明に使われたのではないかと書かれているものがありました。イザヤ書の53章の11、12節です。「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人(つみびと)のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」まさにイエス様の姿を現す箇所です。
二人の考えがすっかり変わったのは、食事の席でイエス様から裂かれたパンを渡されたときでした。それからの二人の行動は素早いものでした。到着したエマオからエルサレムにとって帰り、そこに集っている仲間の弟子たちと復活の出来事を共有したのです。すでに陽は暮れて暗い夜道、盗賊に襲われることも考えずにエルサレムに駆けつけました。二人の中には、何よりも仲間とイエス様の復活を分かち合いたいという気持ちが強かったのでしょう。
復活したイエス様によって力づけられた弟子たちも、他の人たちにイエス様のことを力強く語るようになりました。先に朗読された二つの聖書の箇所にも力強い言葉が語られています。第一の朗読でペトロは言います。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。第二の朗読でも手紙の中で書かれています。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」。つい二週間前に私たちは主の復活を祝いました。イエス様の死によって生きる意味を失ってしまった弟子たちは、復活したイエス様と出会うことで、イエス様がこの世界に与えられた意味を理解し、復活したイエス様を讃えて力強く宣教を行いました。私たちも弟子たちと同じく復活したイエス様に出会っています。このイエス様に力づけられ、今週も神様を讃えながら過ごしていきたいと思います。