神の栄光が現れるため
ヨハネによる福音書 9章1節~12節
ずっと以前、神学生の頃だったと思いますが、障碍者と教会問題委員会という会議に参加していました。その会議でよく読まれていた聖書の箇所が今日の日課の特に「彼が罪を犯したのでも、両親が犯したのでもない、神の業がこの人の上に現われるためである」という箇所でした。当時の私は、聖書理解も障碍者の方々の気持ちも理解が浅く、この聖書が気休めに響かないのかと思っていました。しかし障碍者の方々は、この箇所を気休めどころから、心から救いの言葉として受け取っておられました。障害というと誰もが、マイナスなこと、不利なことと理解します。つまり障害は負い目と感じるのです。しかし聖書は、それを負い目とするのではなく、神の業、栄光が現れる場所と肯定するのです。自他ともに否定され続けた障碍者にとって初めて障害を肯定的に認められたのです。これは何よりも大きな救いだったのではないでしょうか。今でこそ、パラリンピックなどで障がいのある方のスポーツが評価されますが、30年以上前は、そんなことはありませんでしたし、聖書の時代はもっと否定的、差別的なものだったと思います。
弟子たちは目の不自由な人を見かけ、彼が目が見えないのは彼本人が罪を犯したせいですか、それとも両親が罪を犯したせいですか、とイエス様に尋ねました。これは応報思想と言われ、いつの時代にもある考えです。罰が当たるという事もこれと同じことです。不幸な出来事があるとその原因を、本人や親、先祖に求めるのです。この応報思想には、人を無理やり納得させる力はあっても人を救う力はありません。しかしイエス様はこの応報思想を否定し、「彼が罪を犯したのでも、両親が犯したのでもない、神の業がこの人の上に現われるためである」とだけ答えられ、奇跡を起こされたのです。神様の愛がこの人に注がれ、そこに神様の業が働いたのです。マイナスと思われること、不利とされることに、神様の業の逆転が起こるのです。これは障害のある方だけではありません。私たちも悲しみや不幸に見舞われます。弱さをたくさん持っています。しかしそこにはかえって神様の愛が働くのです。パウロが「私は弱い時にこそ強い」いう所以です。私たちは神様が働く器です。それもかけたところの多い器です。しかしそのような私たちに神様は働いてくださるのです。
目が見えない人が見えるようになったという人の思いを超えた出来事への驚きと疑い、そしてその行為が一切の労働を禁じた安息日に行われたという律法違反。救い主の到来を期待する風潮がありながらも、その事実が起こることを警戒。人々は見えなかった人が見えるようになったという喜ばしい出来事には目を向けず、疑いと不信感だけをあらわにしています。そこには人の弱さと愚かさ、悲しさがあります。
人々は目が見えるようになった人をファリサイ派の人々の前に連れて来ます。そしてどうして見えるようになったか問いただすのです。彼は「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと見えるようになったのです」と事実だけを答えました。さらに人々は彼の両親までも呼び出し、問いただすのです。両親は、ファリサイ派の人々を恐れ、息子が生まれつき盲人であったことだけを答えます。そして、彼ももう大人ですから彼にきいてくれと追及を逃れるのです。なぜここまで追及されなければならないのでしょうか。聖書学的には、これはヨハネ福音書が書かれた時代の、イエス様をキリストと告白することへの迫害が背景にあるといいます。いずれにしても、あれやこれや追及するファリサイ派の人々と対照的に、この目の不自由だった人もその両親も、事実だけをもって答えているのです。
イエス様の行為には理屈はありません。そこにあるのは愛だけです。神様の愛がこの人に注がれ、そこに神様の業が働いたのです。ファリサイ派の人々はあれこれ理屈を考え、その出来事を否定しようと必死になります。しかし彼は、「あの方が罪びとかどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っていることは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」とだけ答えます。預言書によると見えなかった人が見えるようになるという事は救い主の到来を意味します。この事実だけで救い主を証言しているのです。彼はこのあと会堂から追放されてしまいます。しかし、それを知ったイエス様は彼を受け止め、自分が救い主であることを明らかにされ、彼が救われたことを知らされます。この人々にとっては疑惑の小さな出来事は、もちろんそれは彼にとって大きなことであったのですが、彼はその事実を告白することによってより確かな救いを得るのです。
私たちは今イエス様の十字架を覚える時にいます。イエス様の救いは、特定の人の救いの出来事ではありません。世界のすべての人を救いに至らせる出来事です。この出来事を受け入れ、自分の罪の許しのためにイエス様が十字架にかかって死んでくださったと信じ、告白するとき、その救いは私たちにとって確かなものになります。そしてさらにその告白は、証しとなり賛美となるのです。