みことばによって戦う
創世記 2: 15 – 17, 3: 1 – 7、マタイによる福音書 4: 1 – 11
今日の旧約聖書の日課は、堕罪物語です。神様は最初の人類であるアダムとエバにエデンの園のすべての木から木の実を取って食べなさい。しかし善悪の知識の木からは決して食べてはならないと命じられます。ところが蛇が現れ、女に「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」とそそのかすのです。その木の実はいかにもおいしそうで目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていたのです。そこでアダムとエバはその実を食べ、二人の目が開け、自分たちが裸であることに気が付くのです。ここでの究極の誘惑は神様の言葉に背くことです。そのために目を引き付け、賢くなるようにそそのかすのです。誰でも醜いものに惹かれることはありません。姿かたちが美しく、合理的、魅力的なものに惹かれるのです。ここでの誘惑は、さらに神のようになるという犯してはならない重大な罪の誘惑があるのです。
今日の福音書の日課に、新共同訳聖書は「誘惑を受ける」と表題をつけています。この誘惑は試練とも解されます。どんな試練か、それは私達が試みにあった時に、何に頼るか、何を一番に大事にするかが試みられているのです。悪魔の誘惑の一番の狙いは、人を神様から引き離すことです。悪魔の誘いは、それとすぐ分かるような仕方ではやってきません。むしろもっともらしく、時に合理的に、時に説得力を持って、時に美しく、魅力的に、積極的な考えのように迫ってくるのです。
イエス様は荒れ野に行かれ、四十日四十夜、食べ物を絶たれ、完全に空腹になられたところに悪魔がやってきて試みます。最初の誘惑である「石をパンに変えてみなさい」という言葉も、空腹のイエス様に対するむしろ空腹を満たすための良い解決策としての声かけです。もちろんイエス様にとって石をパンに変える奇跡を起こすことは、たやすいことでした。しかしイエス様の力はご自分のためではなく人の救いのために用いられるのです。そしてそれを申命記の言葉「人はパンだけで生きるものではない」を用いて、神様のみことばが何よりも大事であり、より頼むべきものは神の言葉であるということを教えられるのです。
第二の誘惑では、悪魔はイエス様を神殿の屋根の端に立たせます。そしてイエス様がみ言葉を用いて反論されるのを逆手にとって「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。詩編の言葉を用いて『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる』また『あなたの足が石に打ち当ることのないように、天使たちは手であなたを支える』」と試みるのです。これは神様の力を証明することへの誘いです。不思議な力をしてみせるということは、神様の力を知らしめるためには有効です。しかし、神様ご自身はそれを必要とされません。むしろそれは神様に信頼せず、試すことに他ならないのです。このように悪魔はいつももっともらしいこと、しかし神を信じるためには不必要なことを言って誘ってくるのです。
第三の誘惑として、悪魔はイエス様を高い所に引き上げ一瞬のうちに世界のすべての国々を見せます。そして「この国々の一切の権力や繁栄を与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ」と言います。権力と繁栄が悪魔の手に任されているということは、政治の世界を見ると、とても意味深なことですが、悪魔はそのためには「わたしを拝みなさい」という条件を付けるのです。権力と繁栄にはいつも悪が付いて回るわけではありません。確かに政治的権力や経済的な事柄には不正が付きまといます。しかし純粋に世の中を良くしようと考える人もまた、権力や繁栄の力があれば、それがより早くより確実に実現できると考えるのです。しかしそこにはいつも落とし穴があり、悪魔を拝む、悪魔を絶対者とする誘いがあるのです。このような誘いに対してもイエス様は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と退けられました。人は絶対的な力を持つ必要はありません。いたずらにそれを求める心は、自分が神となろうとしていることにほかなりません。そしてそれこそが悪魔を主と拝むことなのです。
それでは、悪魔はどんなときにその誘いの言葉をかけてくるのでしょうか。イエス様の場合、極限的な空腹状況、それは肉体だけでなく精神的にも弱り果てるような場所です。肉体的にも精神的にも満ち足りているときには、悪魔の誘いがあったとしても、それをはねのけるだけの力があります。しかしそのような力がないところ、そこに悪魔はつけ入ってくるのです。
その意味で、私たちにとっての悪魔の誘惑とは、日常の中に潜んでいるように思います。精神的に疲れている時、病気などで肉体的に弱っている時、迷いがあるところ、そして今私たちが経験している漠然とした恐怖と不安です。
悪魔は私たちの日常の中に、そして積極的で合理的な姿を取って近づいてきます。それでは私たちは誘惑にあいそうになった時、どのようにしたらいいのでしょうか。悪魔は私たちの弱さを知り尽くしていますから、わたしたちが素手で立ち向かおうとしても、さまざまな方法、言葉、考えで上げ足を取ってきます。それに立ち向かうためには、ご自身みことばによって悪魔を退けられたイエス様のみことばにすがるしかありません。
今日の三度の誘惑のうち二回は、「神の子なら」という言葉で誘っています。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」というようにです。神の子なら出来るだろうと挑発しているのです。この言葉はイエス様が十字架にかかられた時にも聞かれた言葉です。議員たちは、「神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(23: 35)とあざ笑い、兵士たちも「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と挑発したのです。イエス様は、悪魔の挑発には乗りません。イエス様が従うのは神のみ心だけです。それは石をパンに変えるのでもなく、神殿の屋根から飛び降りることでもなく、十字架から下りて自分を救うことでもありません。神様のみ心は、最後まで十字架から下りることなく、苦しみを受け、死にいたることによって人々の救うことだからです。イエス様は最後まで神様のご計画に従順であったのです。
悪魔は私たちを神様から遠ざけようとするのですから、その対抗策としては、私たちはイエス様のみことばにしがみついて生きるしかありません。しかし私たちはみことばから離れる時があります。いつも悪魔の誘惑の危機に瀕しています。しかし、そんな時に十字架から差し伸べられるイエス様のみ手は、私たちを離しません。そのみ手がみことばです。十字架の言葉は、議員や兵士たちにとっては愚かな言葉ですが、しかしこのみことばに信頼するものにとっては誘惑に打ち勝つ力なのです。私たちはこのみことばに頼るのです。それでは、みことばに頼るとはどういうことでしょうか。この信仰に留まる時、悪魔の意図としての誘惑は跳ね除けられ、信仰を鍛える試練と変えられていくのです。