2022年12月11日 説教 松岡俊一郎牧師

イエス様とバプテスマのヨハネ

マタイによる福音書 11: 2 – 11

説教の動画をYouTubeで視聴できます。

バプテスマのヨハネは今、牢につながれています。ヘロデの結婚を批判したかどで捕らえられていたのです。そこで自分の弟子たちをイエス様のところに送り、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか」と尋ねさせています。この行動は少し不思議です。なぜなら、ヨハネは、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」と言っていますし、イエス様が洗礼を受けるためにバプテスマのヨハネのところに来られた時、彼は「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のことへ来られたのですか。」と言っているからです。すでにイエス様が来るべきメシアであることを知っていたはずなのに、ここで改めてその真偽を聞いているのです。

この疑問のヒントは、イエス様の回答にあります。「イエスはお答えになった。行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
これは、イザヤ書35章にある、メシアが現れ、イスラエルに栄光の回復がもたらされた時の姿を言っています。イエス様の姿を見て悟れと言われているように思います。
聖書の時代の人々は、ローマ帝国の支配のもと、ヘロデ王家の圧政、宗教指導者による厳格な律法の強要、そして貧困にあえぎ苦しんでいました。彼らが求めていたメシア像、救い主はその重圧からの解放者であったのです。バプテスマのヨハネは社会から一線を画していた宗教者でしたから、民衆と同じようなメシアの到来を望んでいたわけではないと思います。しかしそうであっても、彼は今、牢につながれています。ヘロデの結婚を批判したかどで捕らえられていたのです。自分は今や殺されるかもしれないという思いの中で、イエス様が真のメシアであるか確かめたかったのかもしれません。しかし、当のイエス様の姿にはそのような強い姿は見られません。解放者どころか、体の不自由な人のところに行って癒し、貧しい人の友となられていました。その姿は一見すると解放者からは程遠い姿だったのです。しかし、イエス様はこの自分の姿こそが、メシアの働きであることを強調されるのです。

私達の暮らしは比較的豊かで安定しているかもしれません。しかしみんなが悩みがないわけではありません。良かれと思ったことが、そのように進まなかったり、世界では戦争と紛争、災害と貧困が蔓延しています。国内でも格差社会の中で子どもやひとり親の貧困は深刻です。社会は労働力を求めていますが、多くの労働者に非正規雇用の波が押し寄せ安定した労働環境ではありません。心の中は孤独で自尊心が損なわれ生きる喜びも意欲もなくなっています。災害が頻発し、実際の暮らしが脅かされ仕事が奪われています。私たちの国と時代には終末待望やメシア待望の思想はありませんから、それを望むことはないにしても、実際的には少しでも生活が楽になりたい、健康でありたい、精神的にも救われたいという思いは誰しもが持っているのです。

イエス様が、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」と言われる時、それは目に見える事象だけを言っておられるのではありません。教会に来たから、洗礼を受けたから、目が見えない人が見えるようになるとか、足が不自由な人が歩けるようになるとか、重い皮膚病を患っている人が清められ、耳の聞こえない人が聞こえるようになり、死んだ人が生き返るわけではありません。牧師たちの間で話をしていると時々そのような奇跡が起きるという話を聞きますので、それを完全否定するものではありませんが、現実には、何も変わらないことが多いのです。

しかし、全く変わらないか。そうではありません。大きく変わることがあります。目の前の困難に目を奪われて神様が見えない私たちが、いろいろな情報の騒音に惑わされて神の言葉を聞くことが出来ない私たちが、孤独でだれも一緒に歩んでくれないと思いこんでいる私たちが、イエス様の十字架によって大きく変わるのです。罪から清くされ、孤独と劣等感の中で生きる意欲を失っている時にも、イエス様が私達を肯定してくださり、共に歩んでくださり、喜びをもって福音に生きることが出来るのです。確かに、私達には実際の苦しみと困難さがあります。それらによって心までが打ち砕かれています。しかし、神様の力はこの打ち砕かれた心に再び命を与え、私達に生きる望みを与えてくださるのです。もはや一人で苦しむのではない。神様が共にいてくださるのです。

今年もあと二週間になりました。年の瀬はあわただしく、安らぎを感じる余裕がないものです。しかし、時は待降節、神様が人としてお生まれになった時を待ち望む時です。このような時だからこそ、今一度、主イエスが貧しく弱い私たちの救い主となられたことを思い出したいと思います。