2022年9月18日 説教 松岡俊一郎牧師

不思議なすすめ

ルカによる福音書 16: 1 – 13

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今日の福音書の日課のたとえ話は、大変難解なたとえです。たとえ話は、本来イエス様の教えをより理解しやすくするためのものなのに、かえって分かりにくくしています。しかし文句を言っても仕方がありません。この難解なたとえを理解するために、イエス様が今どんな時におられるか、そしてこのたとえを誰に語っておられるかを知ることからはじめましょう。
イエス様はエルサレムに向う旅の途中でした。あちこちの村や町に寄られているところを見ると一見のんびりした旅のように思えます。しかし実際は、そうではありません。イエス様の前にはエルサレムで待っている十字架の死がありました。十字架の死が予想されていたからこそ、イエス様はあちこちの村や町で神の国の到来と救いについて熱心に話しておられるのです。その対象は、徴税人や罪人とされていた人たち、彼らと食事をすることを軽蔑していた律法学者やファリサイ派の人たち、そして何にもまして一番身近にいた弟子たちに、神の国の福音をしっかりと受け止めるように話しておられたのです。それはイエス様にとっては差し迫ったことだったのです。ところが、人びとの反応はどうでしょう。相変わらず、冷ややかに聞く人、敵対心をもって聞く人、他人事のように聞く人、のんきに聞き流す人、いっこうに理解しようとしない人などがほとんどだったのです。それは弟子たちも同じでした。だからこそ、今日のたとえを弟子たちにも向って語られているのです。

今日のたとえの主人公は、雇われ管理人です。主人から財産を預かってその管理をしていました。この管理人は主人のチェックが甘いことをいいことに不正を犯していたのです。人は最初から悪いことをしようとする人は少ないと思います。仕事に緊張感がなく、甘えが生じたところに悪魔の誘いがあります。横領などの事件の多くは内部告発などで明るみに出ます。このたとえでも主人に管理人が不正を行い主人の財産を無駄使いしていると告げる人がいたのです。そこで、主人はこの管理人を解雇しようとします。そこで管理人はあわてて考えました。ここで急に解雇されてしまっては生活できなくなります。不正で得たお金は、浪費されることが常ですから貯金などはありません。管理人も事務職でしたでしょうから肉体労働など出来そうにありません。物乞いなどはプロイドがゆるしません。そこで彼は自分が解雇されても雇い入れてくれるように借りのある人たちに恩を売ることを画策したのです。管理人は主人に借りのある人を呼びつけます。ある人は油百バトスありました。たくさんの量の油です。管理人は借用書を出し、百を五十に書き直すように言います。別の人は小麦百コロスありました。これも大量の小麦です。この人にも百を八十に書き直すように言いました。当時は利息をたくさん取って、その利息を含めた額を借用書に書いていたといいますから、見方によっては、この管理人は利息分を負けてやったということが出来ます。そうすると借りた人ももともとの持ち主の主人も損をすることはなかったので八方丸く収まるというわけです。
イエス様は、このことを知った主人が、この管理人の抜け目のないやり方をほめたとたとえを結ばれます。そしてさらに、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」と言われます。

そのまま読んでしまうと、イエス様が管理人の不正なやり方を奨励しておられるように感じます。しかしイエス様が切羽詰った状況の中で弟子たちに対して語られていることを考えると、イエス様が見ておられるところが別にあることがわかります。

人々はイエス様の言葉を冷ややかに聞き、反感をもって聞き、他人事のように聞き、のんきに聞き流し、いっこうに理解していませんでした。律法学者たちやファリサイ派の人々は、現状で十分に豊かで満足できる生活をしていました。ですから自分たちの生活を変えたくないのです。一般の民衆など満足していない人も、不満を持ちながらも変わることを恐れるのです。神様に求めることをしない人々のことを、イエス様は「この世の子ら」と呼んでいます。それに対して、神様に聞き従い、イエス様に従う人々のことを「光の子ら」と呼んでいます。しかし「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」のです。神様に聞き従わないこの世の子らは、社会的なことでは知恵を働かせ、必死に働き、迅速に行動しています。

「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」この言葉も難解な言葉です。「不正にまみれた富」という言い方は、さもお金やこの世の働きを否定しているように聞こえます。しかし「不正にまみれた富」という言葉に過剰に反応するのではなく、まさに私たちの生活の現実という風に理解してはどうかと思います。私たちの社会は基本的に経済活動によって成り立っています。もちろん心や精神性も重要ですが、私たちの生活はお金なしには考えられないし、社会も経済を中心に動いています。つまり、イエス様はこの現実の生活の中で、大切なものを選び取るように、それも緊張感と必死さをもちながら求めるように勧められるのです。その緊張感と必死さで神様の救いを求めるならば、この世の終わりの時、その救いは与えられるということです。9節に「永遠の住まいに入れてもらえる」という言葉があります。すべての目的は、この終わりの日に永遠の住まいに入れてもらえること以外にないのです。
その意味で「ごく小さなことに不忠実なものは、大きなことにも不忠実である」と言われる時の「ごく小さなこと」とは、私たちの毎日の生活であり、「大きなことと」は、神様の救いを求めることにほかなりません。毎日の生活をなおざりにする人は、神様の救いをも真剣に求めないのです。山にこもって祈りの生活をすることも大切です。イエス様も祈る時は一人になられました。しかし、イエス様は一人を好まれたのではなく、人々を求められたのです。そしてそのために人々が繰らず実際の生活のただなかに入っていかれるのです。
しかし、だからと言って私たちの究極の目的を見誤ってはいけません。現実の生活に必死になるあまり、それにどっぷり浸かりすぎて、それ自体が目的になって、お金や財産だけを求めてしまうようになっては本末転倒です。私たちは「神と富とに仕えることはできない」からです。私たちが求める究極の目的は、神の国であり、神様のご支配であり、神様お救いです。この目的を目指して歩み続けましょう。