どこまでも愛にこだわる
ミカ書 4: 1 – 5, ヨハネによる福音書 15: 9 – 12
8月は日本人にとっては、平和を考える月です。8月6日には77年目の広島原爆の日、9日には長崎に落とされたことを覚えています。またそれによって15日の敗戦が決定づけられたのです。
今年は特に戦争と核兵器が、リアリティをもって語られる年になったと言わざるを得ません。ロシアによるウクライナ侵攻です。インターネットによってその戦争の実態が、世界にくまなく配信され、私たちは戦争のもつ非人間的で、むごたらしさと愚かさをつぶさに知らされるのです。おまけに核保有国が、核使用をほのめかし、優位を取ろうとしているのです。しかしこの戦争の実態を知らされ、戦争をすべきでないと考える一方で、超大国の武力による脅威によって、それに対抗する軍事力を身に着けるべきとの考えが広まっていることも事実です。形骸化していた非核三原則ですが、それでも日本が核を持つことにはブレーキが掛けられていました。ところが核共有論などが言われるようになりました。今、中国は台湾を取り囲むように軍事演習を展開し、台湾を威嚇しています。中立を保っていたフィンランドやスウェーデンは、ロシアのウクライナ侵攻をきっかけにNATOに入ることを決めましたし、私たち日本人もその恐怖により防衛費拡大の議論が広まっているのです。力に対して力で立ち向かおうとしているのです。これは軍事大国に挟まれたイスラエルの反応とよく似ています。しかし、イエス様は「剣をさやに納めなさい。剣を取るものは皆、剣で滅びる」と言われています。
さて、聖書は神様の掟を守ることによって救いが約束されています。そのためにユダヤ教では、より完全な救いを得ようと掟を膨らませ、膨大な数の掟を自分たちに課しました。しかしパウロの指摘によれば、それは掟を守ることのできない人の姿、罪の姿が明らかにされるだけでした。
罪は誰もがもっている愛の心、いつくしみの心を閉ざします。罪は私たちの心が向かうべき神様の方ではなく、自分の方に向けてしまいますから、罪のあるところでは、もはや神様との結びつきは望めません。罪は人を神様から遠く離れさせてしまうからです。そこでイエス様は「わたしの愛にとどまりなさい。」と言われます。人が神様と遠く離れても、イエス様と父なる神はひとつだからです。ですから、イエス様にとどまるならば、私たちも父なる神と一つとなれると言われるのです。さらにそのためにはイエス様の掟を守りなさいと言われます。イエス様の掟とはただ一つ、愛し合うことです。しかしこれが私たち人にとっては難しいことです。私たちが依然として罪の中にあるからです。この罪からの脱却は、私たちの力ではできません。それが出来るのは、神様だけです。そこで父なる神は、独り子であるイエス・キリストを十字架に架けることによって私たちの罪を赦し、このキリストの十字架の出来事によって、私たちが神様のみ前に立つことが出来るようにしてくださったのです。
イエス様は13節で「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われます。私たちはこの言葉を私たちに向けて語られたと理解しますから、私たちが友のために命を捨てなければならない、犠牲を払わなければと思ってしまいます。そしてそんなことはできないと困ってしまうのです。しかし、15節でイエス様は「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われます。つまり友のために命を捨てるのはイエス様ご自身であり、その言葉通りに十字架によって命を捨ててくださるのです。これ以上の愛はないといわれるほどの大きな愛であり、そのしるしである十字架によって、イエス・キリストは私たちを愛してくださるのです。この愛によって、頼りない、あるいは全く当てにならない私たち人の心も、神様のみ心にかなう愛になり、その器として用いられるのです。
私たち人にも愛やいつくしみ、優しさはあります。しかし私たちのそれは罪によって泥まみれですから、真実の愛とそこから生まれるいつくしみや優しさは、十字架によって与えられる神様の最上の愛を受け入れてこそ、私たちのものになるのです。
平和とはもはや戦争のない状態だけに留まりません。人が人として生きることのできる状態です。それは差別のない世界、餓えのない世界、争いのない世界、虐待のない世界、孤独のない世界です。そのような世界の実現こそが平和な世界です。そのような世界は力で築くことはできません。それが出来るのは愛です。愛が人を動かし、社会を動かすのです。しかし、私たちの持てる力はまことに小さく、大きな社会にあっては全く無力であるように思います。
預言者ミカは預言者イザヤと同時代に生きた人でしたが、イザヤが時の権力者に対して発言力を持っていたのに比べ、ミカは民衆の中にいた人でした。ミカは民衆の中にあってエルサレムの審判を強烈に預言しました。そして今日の日課である4章では、一転、実に印象的にイスラエルの回復を預言しています。神の国が実現するとき、「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや闘うことを学ばない」のです。ミカの声は当時としては小さいものであったにちがいありません。しかしミカは、まったく無力な中で、国と権力者、民衆の神様への背信を批判し、一方で神様の救いの預言を力強く宣べ伝えたのです。それは私たちの姿によく似ています。社会は軍事的な脅威、それに対する備えを声高に叫び、力に頼る国際関係のただ中にあって、軍事力の強化が叫ばれます。私たちキリスト者の愛を中心とした平和の構築の声は無力に感じます。平和を作り出す者の声は小さいものです。平和を願う声は、戦争の恐怖を見せつけられ、それに対抗しようとする声にかき消されそうです。しかしそれでも神様は私たちを平和を作り出す器として育て用いてくださるのです。私たち信仰者が出来ることは、力に頼る世論に与するのではなく、キリストが示された愛にこだわり、愛による神の国の実現を求め続けるのです。それはまずはひとりひとりから実現します。革命的な力で実現するのではないのです。私たちの心、私たちの毎日から愛と平和を発信するのです。