遣わされる
ルカによる福音書 10: 1 – 11, 16 – 20
今日の福音書の日課には、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」という大変印象的な言葉があります。牧師不足の現実を突きつけられている者としては、身に染みる言葉です。使徒パウロは「私は福音のためには何でもする」と言っています。牧師たちも自分たちの限界を知りつつ、この気持ちを持っています。しかしイエス様は、まず「収穫の主に願いなさい」と言われています。何かをする前に「願うこと」を求められています。なぜでしょうか。ここには宣教の本質があります。宣教は神の業だからです。しかし人は誤解して、自分の力を信じ、自分の力に頼って、そして自分で何かが出来ると信じて行動します。しかしそれは人の思いでしかありません。「財布も袋も履物も持っていくな」と言われるのも、頼るものは神様だけであるべきなのに、しかし人はいろいろなものを備え、武装します。イエス様は宣教が困難であることは初めからわかっておられました。自らもサマリヤ人から歓迎されない、それだけでなくユダヤ人たちからも迫害され、拒絶される経験をお持ちだからです。だからこそ「狼の群れに小羊送り込むようなものだと言われるのです。」それは困難を予想されるだけでなく、そうであってもあえて弟子たちを送り出そうとされるのです。それは神の国を宣べ伝えることが何よりも大切だからです。そして「途中でだれにも挨拶をするな」とも言われています。それだけ時間がない、急ぐべきことだと言われているのです。
伝道の困難さは、身近なところにもあります。明治時代は、キリスト教は耶蘇として迫害されました。戦後は、新しい考え、新しい空気が求められどこの教会もあふれるほど人が集まりましたが、その後は、価値観の多様化によって、キリスト教は多くの価値観の一つとして埋没してしまいます。時代の流れに乗れなかったと言っていいでしょう。そしてコロナです。コロナは、教会が身上としていた「集う」ということに制限をかけてしまいました。礼拝やあらゆる集会、伝道活動、プログラムを自粛せざるを得ませんでした。教会はあらゆる宣教手段を失ったように、戸惑い委縮してしまいました。オンラインという新しい伝道手段を発見しましたが、それもまだ教会内部のことにとどまっていると思います。私たちの前には次々に宣教の困難さが立ちはだかるのです。
このようなイエス様に選ばれ派遣される弟子たちの様子はどうであったでしょうか。12弟子とは違って、72人の紹介はありませんが、弟子たちはごくごく一般の人々だったに違いありません。漁師であり、徴税人であり、政治的な改革を志す者もいました。彼らは子どもの頃はユダヤ教の会堂で熱心に聖書を学んだかもしれません。しかし今のような体系づけられた教育制度があったわけではありません。多くは家の手伝いをしながらのいわば寺子屋通いでした。ファリサイ派や律法学者のメンバーがいたわけでもなく、中心のエルサレムから遠く離れたガリラヤです。宗教や教養から遠く離れていた人々であったと言えます。そんな彼らがいくらイエス様としばらく行動を共にしたからといって、まともな伝道活動が出来たとは思えません。そして彼らにも自信など全くなかったに違いありません。まさに、イエス様に従ってはきたものの、果たして大丈夫だろうか、と自分の生活に不安を覚えていたのではないでしょうか。イエス様はそんな彼らの気持ちを知っておられました。弟子たちがもともと持っていたものではなく、明らかに外からの力、神様からの力を与えられるのです。この力があってこそ、彼らは自分たちの使命を果たすことが出来るのです。
次は、宣べ伝えるべき内容です。イエス様は「まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もしいなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる」と言われます。ここで言われている平和は、「シャローム」という挨拶にも使われる言葉ですが、単なる挨拶の言葉ではありません。これは「満ち満ちた状態」を指します。神様が天地を創造され、「よし」とされ、「それは極めて良かった」とされました。この神様との全き関係が、満ち満ちた状態です。この全き関係は人の罪によって壊れてしまいましたが、神様の人間を思う気持ちは終わることがありませんでした。そしてその関係は神の救いの到来を示す賜物であり、神様が与えられる贈り物なのです。従って、それを受け入れることは神の国の福音を受け入れることであり、それを受け入れないということは福音そのものを拒絶することです。福音を拒絶すると罰が与えられるというよりも、福音を拒絶すること自体が救いに与ることを拒絶しているのですから、その状態がすでに裁きを受けている状態と言っていいと思います。しかし大切なことは、神様はそれを望んでおられないということです。神様はどこまでも人を求め、愛を注ぎ続けられています。
イエス様は弟子たちに「その家に泊まって、そこで出されるものを食べ、また飲みなさい。働く者が祝福を受けるのは当然である。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」私はここでは宣教者に対する癒しと安心が語られているように思います。先にも述べたように、弟子たちは自分に頼るものを何も持っていませんでした。そこには孤独があり、不安がつきまといます。時にはひどく落胆し、気落ちしてしまう時もあります。しかし、パウロは「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言っています。神様が働かれるのです。そしてそこには神様が人を通して働かれる支えがあります。伝道者を迎え、祈り、支える信徒の皆さんです。この支えを知った者は、もはや孤独ではありません。牧師はそこでは大きな勇気と力をいただきます。これがなければ、牧師は牧師として続けることはできないと言っても過言ではありません。それが教会の姿であり、教会を通して牧師と信徒が一緒に神の国の宣教を担い、実現していくのです。
72人の弟子たちは喜びをもって帰ってきました。伝道が成功したのです。それは「主よ、お名前を使うと」と言いながらも、あたかも自分の力でそうなったような気になっていたのかもしれません。しかしイエス様は「喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい。」と言われます。私たちが行った業を喜び誇るのではなく、神様に覚えられていることを喜びなさいと言われるのです。昔、先輩牧師に「自分の行ったことは忘れなさい」と言われたことを思い出します。失敗したことを悔やんでも仕方がないという意味だったかもしれませんが、牧師が陥りやすい功績や自慢からも解放されて自由になりなさいという意味だったと、私はとっています。なぜなら伝道者のすべての業が、自分の業ではなく神様の業だからです。
イエス様に12弟子だけでなく、72人の弟子がいたことは驚きですが、それは特定の人々というのではなく、神様を信じる者すべての人がこの弟子たちであると言っているように思います。私たちみんなが神様の働き人なのです。神様の働きは牧師だけでなく、直接的に聖書の言葉を語らなくても、すべての人がご家庭の中で、仕事場の中で、社会の中でイエス様の愛を実行することが出来ます。神様は私たちを遣わしておられます。そしてそれに必要な支えを与えてくださっています。それを信じて歩み出しましょう。