神様に従うという事
列王記上 19: 15 – 16, 19 – 21
ルカによる福音書 9: 51 – 62
大岡山教会は、コロナの感染が広まる前までは、さまざまな行事を活発に行い、がむしゃらに人を集めて教会に親しんでいただき、イエス様の言葉との触れ合いに努めてきました。そのがむしゃらさが大岡山教会の特徴でもありました。ところが、新型コロナウィルス感染症では、人が密になることが一番いけないということで、あらゆる活動を休止するだけでなく、公開の礼拝を休んだりもしました。かつてない教会の姿で、その落差の大きさに一時はとまどいました。しかし今では、ある意味礼拝以外何もしないことが普通になってしまいました。7月からはいろいろな集会を再開しますが、あくまで内部の集会であって、多くの人を集める活動は依然として自粛しています。その意味では、私たちの伝道、宣教の在り方を大きく問われていると言っていいと思います。
今日の福音書を見ますと、宣教の難しさとイエス様に従うことの難しさを改めて感じます。コロナによる伝道の停滞、困難さとは違いますが、イエス様ご自身が福音を宣べ伝えようとされていても人々はそれを受け入れない姿が描かれています。客観的に言えば、イエス様の伝道も失敗の繰り返しです。また、イエス様を信じる人も、いったんは受け入れてもそれを貫くことができないのです。洗礼を受けても信仰生活を続けることが難しい姿を表わしています。
イエス様は天に上げられる時期が近づいてエルサレムに向かう決意を固められました。そのためにサマリヤ人の土地を通って行かれようとされています。サマリヤ人とユダヤ人とは犬猿の仲になっていました。紀元前721年に北イスラエルが滅亡した時、北イスラエルの住民は捕囚として連れ去られました。その代わりにアッシリアの王は外国人を移住させ、残っていたユダヤ人との雑婚が始まります。またアレキサンダー大王はマケドニア人をその地方に住まわせ、ますます雑婚は進みました。純血を重んじるユダヤ人にとっては、我慢のならないものであり、軽蔑の対象となったのです。このような事情がありましたから普通であれば、ユダヤ人はたとえサマリヤ人の住んでいる地域の向こう側に行く用があっても、わざわざその地域を避け、回り道をして行ったのです。しかしイエス様はサマリヤ人の土地を通ってエルサレムに行こうとされたのです。イエス様はサマリヤ人の町に人を遣わして宿泊の準備をしようとされます。ところが、サマリヤ人たちはイエス様の一行を歓迎しません。イエス様の評判はサマリヤ人たちにも届いていたでしょうから、もしイエス様がサマリヤ人のところにとどまるのであれば、彼らも歓迎したに違いありません。ところがイエス様のこの度旅行は、はっきりとエルサレムに向かわなければならないものでした。それを知ったサマリヤ人たちは、イエス様を歓迎しなかったのです。そこで弟子のヤコブとヨハネは、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と過激なことを言い出したのです。これには訳があります。すぐ前のところです。ヨハネが「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないのでやめさせようとしました」と言うと、イエス様は「やめさせてはならない。あなた方に逆らわない者はあなたがたの味方なのである」と言われたのです。今回、サマリヤ人たちは弟子たちに逆らったのですから敵だ、だから滅ぼそうと考えたヤコブとヨセフにもそれなりの理屈はあったのです。しかし、その理屈が的を得ていたかどうかは、さらに考える余地があります。
別の村に行くと、イエス様に対して「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」という人がいました。この人は本気でそういったのだろうと思います。ところがイエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われるのです。事実、この直前にはサマリヤ人の町で宿泊を拒否されているのです。直接にはサマリヤ人の町だったから拒否されたという事実はあります。しかし、宿泊の有無は別としてもイエス様は、様々な町で、同胞であるユダヤ人たちの町でも攻撃され、命を狙われ、町を追い出されているのです。イエス様の歩む道の険しさが語られています。
別の人に今度はイエス様の方から「わたしに従いなさい」と言われています。この人は、つい最近父親を亡くしたのでしょう。「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。ユダヤ人にとって父親を葬ることは、律法の学びをすることよりも優先されるべきことでしたので、この人がそのように言うことは正当なことでした。しかしイエス様は「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われます。死者を葬ることは大切なことです。しかしそのことに没頭して神の国の宣教をおろそかにすることはできません。ましてや死の世界は神様の世界ですから、死者はすでに神のみ手にあるからです。さらに別の人が言います。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」この人にも、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われたのです。別れの際に家族にいとまごいをするということは、列王紀上19章19節以下を見てみると、預言者エリヤはエリシャに預言者として召しだされるとき、両親に別れを告げることを許されているのです。しかしイエス様はそれをお許しになりませんでした。
イエス様にとって、神の国を宣べ伝えるということは、最も優先されるべきことでした。イエス様がそこに集中しておられたのは、今日の福音書の冒頭の一節からもわかります。エルサレムに向かう、これから受けようとされる十字架によって神の国を実現しようとされる、その並々ならぬ決意がそこに現れているのです。ここに神様に従う厳しさが感じられます。しかし、この厳しさは私たちにとっては従うことの難しさになるのです。そして実際に従おうとした人たちも少なくなかったのです。しかし、そこには人の思いとイエス様の厳しさに落差がありました。たびたび十字架にかかることが予告されていても、人々にとってはそれがどういうものであるか実感がなかったのではないでしょうか。一方、イエス様にはそれがはっきりと見えていたのです。イエス様も従おうとする人たちの素直さや誠実さはわかっておられました。最初に従うと申し出た人にも、はなからそれを拒否してはおられません。その気持ちを受け止めながらも、従うことの厳しさを語られているのです。
神様が命じられたことに従う。それは何の留保も許されません。すべてに優先されるのです。イエス様の招きも差し迫った救いのためであり、最優先課題なのです。しかしわたしたちには、目の前の生活が大切です。切実なことです。それを捨てて、すべてに優先してイエス様に従うことは大変難しいのです。マタイによる福音書19章16節以下にある金持ちの青年の話を思い出します。永遠の命に入るためにどんなよいことをしたらいいですかと尋ねる青年に、イエス様は、掟を守るように言われます。青年は、それらは子どもの頃から守ってきていますと答えます。そこでイエス様は持ち物をすべて貧しい人に施しなさいと言われます。これを聞いた青年は悲しみながら去って行きました。物や財産に対する執着だけではありません。仕事、家族、友人関係、趣味、生活そのものに、わたしたちは強い愛情やこだわりを持っているのです。しかしイエス様はそれらよりもまず、神の国を広めること、そのためにイエス様に従うことを求められるのです。それがやがては私たちの生きる命を豊かにすることになるからです。
しかし、イエス様の強い願いのその結果はどうだったでしょうか。結局、誰も従いませんでした。あれだけイエス様と身近に一緒にいた弟子たちでさえも一緒に居続けることはできなかったのです。十字架のときのことです。イエス様についていくどころか、一番弟子のペトロさえ、知らない、関係ないと言い張ったのです。誰一人としてイエス様には従いませんでした。イエス様は孤独のうちに十字架の道を一人歩まれたのです。
今日、わたしたちにも従うことが求められています。私たちはどうするでしょうか。弟子たちの多くがそうであったように、従う気持ちがあっても、それを全うする自信がありません。私たちも従うことは出来ません。コロナ禍の中にあってイエス様に従うためにどのようにしたらいいのかもわかりません。
しかし、私たちが従い得なくても、イエス様が私たちのところに来てくださるのです。イエス様を裏切り、散り散りに逃げ去り、家に鍵をかけて隠れていた弟子たちのところにイエス様は、イエス様のほうから来てくださいました。もう一度、神の国の宣教のために弟子たちを招かれたのです。とにかく招かれていることを忘れてはいけません。私たちがイエス様に従い得なくても、躊躇していても、逃げ腰であっても、イエス様の方から来てくださるのです。
私たちの心の内にも来ていただきましょう。私たちを内から支えていただき、変えていただき、押し出していただきましょう。そして道を示していただきましょう。イエス様は招き、そのために聖霊を送り続けてくださいます。