主の復活
ルカによる福音書 24: 1 – 12
ロシアによるウクライナ侵攻が止まりません。ニュースを見るたびに私たちでも不安と悲しみ、恐れと怒りが襲ってきます。なぜそんなことをするのか、どうしてそんなことが起こるのか理解できません。戦争はまさに人を残忍な狂気にします。
私たちにとって命は大切です。この命の大切さはどれほど強調されてもし過ぎることはありません。しかし、命を軽んじる世界の現実があります。憎悪によって繰り返されるテロによる惨劇、国や民族のプライドや利害による戦争、国民の命と人権を軽んじる政治、弱者を差別する社会、子どもが犠牲となる家族の崩壊、自分自身や家族に起きる突然の病気。このような中で私たちは主の復活の日をどのように迎えるのでしょうか。
私たちの考え、仕事や生活は、自分の命を中心とした人生の中での出来事であり、その中で物事を判断し心が縛られます。学問や知識としての歴史など自分の生まれる前の出来事に興味や関心を持つことはあっても、自分自身の事柄としては考えません。また自分が死んだ後のことは、家族が幸せに暮らしていくことを願うことはあっても、もはや自分の人生を死んだ後に考えることはできません。つまり私たちにとっては命と限りある人生が絶対なものであり、そこから飛び出すことは難しいのです。それが私たちの考えや想いの限界であり、判断の基準です。しかし、聖書はそれを超える神の世界の出来事を私たちに示します。
福音書の日課を見てみましょう。婦人たちは動揺を隠しきれませんでした。十字架にかかり死なれたイエス様の墓は、大きな石で塞がれていたはずです。その石が脇に転がされているとすると、誰かが動かして中の遺体を持ち去ったに違いないのです。イエス様が亡くなられたときは、ユダヤ教の安息日に入る時刻でした。安息日には働きが禁じられていました。そのためにイエス様は十分な処置ができずに葬られたのです。そのことが気がかりだった婦人たちは、安息日が明けた土曜日の日没には出かけることができず、その翌朝の日曜日の朝早くに、香料を持って墓に向かったのでした。ところが墓を塞いでいた大きな石は動かされ、イエス様の体はなくなっていたのです。彼女たちが途方にくれていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れたのです。遺体がなくなるというだけでショックな上に、普通ではない人が目の前に現れたのです。婦人たちはどんなにか恐れたことでしょう。
恐れおののく婦人たちに二人の人は声をかけます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。ここにはおられない。復活なさったのだ。」印象的な言葉です。死んだはずの方を、生きておられる方というのですから。二人の人は、婦人たちの理解を助けるために、「まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と促しました。婦人たちは、イエス様の言葉を思い出し、まだまだ半信半疑ではあったと思いますが、イエス様の復活を受け止めたのです。もはや墓にとどまる理由はありません。彼女たちは家に帰り、他の弟子たちに一部始終を知らせたのです。ところがイエス様のより近くにいた十一人の弟子たち、他の弟子たちはそれを信じることができませんでした。聖書は弟子たちが「たわごと」のように聞いたことを正直に記録しています。死んだ人が復活するなどとは、普通では考えられないからです。
私たちの常識では、死んだ人が生き返ることはありません。これは私たちの絶対です。しかし、神様は人の絶対を覆されます。人の命が有限であるように、人の絶対は閉ざされています。しかし神様の絶対は永遠へと開かれています。人の絶対を信じることから、神様の絶対を信じることに転換すること、それが信仰であり、キリストのいのちをいただくことです。
神様は御子イエス・キリストを十字架にかけることよって私たちの罪をゆるし、復活させることによって永遠のいのちを与えてくださいました。それは死なないいのちではなく、神様と深く結ばれる関係です。神様は人を愛するために創造されました。逆の言い方をすれば、人は神様に愛されるために生まれたのです。そんな私たちも神様を信じ愛することができるならば、これほどの幸せはありません。しかし、私たちはそれを嫌うのです。神様に造られたものであることを良しとせず、神様を神様と認めず、自分が神様のなりたいのです。自分を中心に生きていきたいのです。ここに神様との関係の破れが生まれました。これを聖書は罪と呼びます。ここから様々な人の苦悩が生まれます。自分が中心であるということは、人を傲慢にし、敵意を生み出します。自分を中心に考えてしまう人の集まりには、自ずと葛藤や争いが生まれるのです。
神様はそれをそのまま放置されません。すべての問題の源である神様と人との関係の破れの回復、そのために神様は、ご自分の独り子イエス・キリストを十字架にかけるという予想もしない仕方で私たちの罪をゆるしてくださるのです。私たちの罪を私たち自身が贖うことも許すこともできません。それができるのは神様だけです。人の罪をゆるすためにご自分の独り子を十字架にかけるということは私たちの理解を超えていますが、私たちの神様に対する罪は、そのような方法でしか解決できないほど深かったのです。そして同時に、神様の私たちを愛する気持ちは、それほどまでに深かったのです。
十字架によって死なれたイエス様は、三日目に復活されました。それは神様の絶対の表れです。人にとって避けることのできない、克服することのできない死に、勝利されるのです。この神様の絶対に信頼すること、そのことによって私たちもまた、死を絶対のものと恐れる必要がなく、限りある自分の命と人生にとどまることなく、永遠への歩みをゆるされるのです。人の前で絶対的な壁としてそそり立っていた死は、この復活によって打ち砕かれました。そして命は生と死を貫いて生きるのです。確かに肉体の死を私たちは避けることはできません。しかし神様と共に生きる命は、死の壁を越えて永遠に生き続けるのです。だからこそ私たちは生きていても亡くなられた方々と共に生きることが出来るのです。今私たちは、亡くなられた家族、友人を思い起こします。共に過ごした思い出がよみがえります。そして私たちはいつの日にか、再び神様のもとで復活し、相まみえることが出来る希望を持つことが出来るのです。それまでの間、私たちはこの世を生き続けます。その中心は、神様が人を愛された愛に生きることです。その愛を持って互いに愛し合うことです。そのような生き方こそが、神様との関係に生きることであり、人に最大の幸せをもたらすのです。
すべての人に復活の主の永遠の命が与えられ、平和が訪れますように。