2022年1月23日 説教 ディヴィッド・ネルソン神学生

我らの力の源

ネヘミヤ書 8: 1 – 3, 5 – 6, 8 – 10
コリントの信徒への手紙1 12: 12 – 31
ルカによる福音書 4: 14 – 21

説教の動画をYouTubeで視聴できます。

去年の4月から大岡山教会で神学校2年生の実習生としてお世話になっています。この交わりに参加して感じた事があります。多くの人にとってこの教会は心の故郷です。幼稚園を通しても地域との大事な繋がりを持っています。七五三の祝福式、クリスマス・イブ礼拝にも沢山の親と子供が参加しました。ハートが温まる心の故郷だと感じました。

聖書には信仰のストーリーの原点、故郷のような出発点があります。それは旧約聖書の世界です。ヘブライ人文化、今で言うパレスチナ地方の古代イスラエル、ユダヤ人の信仰です。今日の旧約聖書の日課はネヘミヤ記からです。イエスの時代は今から2,000年位前の話ですが、それのさらに600年前にユダヤ人に大きなトラウマがありました。バビロニアと言う強い勢力に戦争に負け、エルサレムの大事な神殿が破壊されました。それだけでは無く、多くの人がユダ王国から強制的に移住させられました。この時代はバビロン捕囚と呼ばれています。ユダの民には大変なショックだったに違いない。しかし、こう言う話は、実は珍しくないです。歴史にはどの時代でも国や帝国が栄えたり、滅亡して消えたりします。驚くことはバビロン捕囚ではなく、その後の事です。ユダヤ人文化は消えませんでした。旧約聖書の信仰は消えません。しかも何十年もしたら、またエルサレムに戻ることが許されました。戻った人はエルサレムで神殿を建て直しました。そしてエルサレムの周りにしっかりしたお城の壁、城壁を立てました。当時は立派な街には城壁が不可欠でした。敵から守るため、泥棒や悪党集団から身を守るためでした。今日の旧約聖書日課では、エルサレムの神殿と城壁を建て直した後、それを祝うために多くの人が集まりました。どう祝ったでしょうか。みことばを朗読したのです。モーセ5書の朗読です。大事な事を知ったからです。確かにやるべき事はやる。責任を持って自分を守るための城壁を作る。でも最終的なよりどころはそこでは無い。城壁が自分の神様ではない。力の源は自分の知恵や成果ではない。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」と言われているように神様に生かされている、神様に祈る気持ちで生きる。そうすると何も怖くない、希望と勇気を持って難しい現実を生きることが出来るのです。

私たちも同じです。私たちもトラウマやショックや理不尽な事はあります。現実にできる限りの事はします。人生設計や、計画、努力をします。それは立派で尊いものです。しかし信仰者として私たちの力の源は自分の知恵や成果ではない。みことばを通して出会う救い主イエスが私たちの力の源です。そこに生きる意味、生きる力を見出します。

今日の福音書の日課のルカ書ではイエス様の宣教の始まりを紹介しています。ユダヤ教の会堂でみことばを朗読します。イザヤ書です。とても短い説教をします。今日ここでこのことが実現したとイエス様は言われました。何を意味するのでしょうか。イエスが読んだイザヤ書の言葉:「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたのである….捕らわれている人に解放を….圧迫されている人を自由にし、主の恵の年を告げるためである。」。このイザヤ書の言葉は元々はバビロン捕囚からの解放の話です。エルサレムに戻る事が許された時の事、その喜ばしい出来事を示しています。このイザヤの言葉はイエスの時代にはメシアの予言として理解されていました。「メシア」と言うヘブライ語の意味は油に注がれたもの。王様や祭司になる儀式で油が頭に注がれました。のちには「油を注がれた者」が望まれる救い主メシアを意味しました。神様がきっと助けてくださると期待されてました。イエスが言われた:「この聖書の言葉、今日….実現した。」多くの人が街に待っていた救い主がついに来たのです。

みことばを通して私たちは福音に触れます。その福音の宣教は教会の一番大事な使命です。本日の日課にはイエスによる福音宣教の出発点です。

時には基本を改めて振り返る事が求められます。「福音」と言う言葉は私たちは親しみなれています。しかし、少し改めて考えましょう。「福音」は一体何でしょう。どう理解すべきでしょうか。どう言う定義になるのでしょうか。

みことばを通して私たちが出会う福音は哲学ではなく、定義をつけて理解するような思想や原理原則ではないです。人間の作った幸福実現のための知恵ではないです。そうではなくナザレのイエスと言うお方なのです。そのお方が、私たちの救い主としてこの世に送られたのです。そのお方は十字架に付けられ、死んだ後、三日後神様に起こされ、復活され、今なお私たちの、生きた救い主です。私たちの力の源は聖書を通して出会う生きた神、生きた救い主です。

今日の使徒書の日課では教会の事をキリストの体だと明言しています。私たちはイエスキリストを目で見えませんが、キリストの体である教会は目で見る事が出来ます。教会は人間の集まり、罪人の集まりです。しかし、イエスの名において2人または3人が集まれば、イエスが一緒にいます。キリストの体である教会を通して、みことばの福音を通して私たちはイエスに出会い、そのイエスが生きる力の源です。

科学や技術が進んでいる現代社会、私たちの時代には救い主が本当にいまだに必要でしょうか。旧約聖書の時代にはイスラエルは多くの敵に囲まれて大変でした。イエスの時代でもローマ帝国の抑圧や貧困や病気などで多くの人は苦しんでいました。救いの必要を感じるのは当然でしょう。今の私たちはどうでしょう。日本の事を考えると、日本に住み慣れると、ここほど便利で居心地のいいところは世界に無いかもしれません。東京のような大都会でも空気も、水も、治安も安全安心です。交通機関も医療機関もコンビニも何もかも便利です。しかし人間社会には必ず光と陰があります。新聞やニュースを見ると、陰も見えます。しかも、現代社会が生み出す新しい病や問題もあります。社会の不正や抑圧の苦しみが無くなっていません。私たちが自分の心を正直に見るとどうでしょう。神様の前に誤魔化し無しのありのままの自分。全てが誇らしいとは言えないです。

日本福音ルーテル教会の宣教活動の一つである本郷学生センターで私は週2回聖書や英語を教えています。そこで出会う若い人の多くは私よりも頭の良い、賢い秀才です。何を信じているかを問うと多くの人は「私は自分を信じる」と答えます。これは良い事です。若い時、とことん頑張って自分の人生の道を切り開くこと、自信を持って前に進む姿は尊いものです。しかし先月1人の50代の男性が洗礼を受けました。立派な大学の卒業生であり、立派な会社で長年勤めて来ました。でもそれが全てか?生きる意味を問い詰める中で、その方は本郷学生センターのシニア部門で聖書と出会い、キリストと出会い、聖霊により信仰の道に導かれました。キリストの体に加わりました。生きる希望、生きる力の源には自分の知恵、自分の成果以上のものを求めてキリストに出会ったのです。今でも何かを求めて、何かを必要とする人がいます。

聖書が私たちに教えることはとても不思議な事です。全宇宙を作った神様が小さい私たちの事まで関心を持つお方だと。ある黒人霊歌の歌詞には: His eye is on the sparrow, I know he watches me. 一羽のスズメまで関心を持つ神様、きっと私をも大事にしておられるに違いない。私たちの力の源、私たちの救い主は、私たちを強め、守り、真の命を与えます。