2022年1月16日 説教 松岡俊一郎牧師

尊い者とされる

ヨハネによる福音書 2: 1 – 11

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イエス様は様々な不思議な業を行われました。病人を癒し、歩けなかった人を歩けるようにし、目の不自由な人を見えるようにされます。さらに死んだ者を生き返らせ、荒波の上を歩き、荒れ狂う波を静められます。それらは人の体や命に関することから自然現象など多岐にわたります。しかし私たちはこれらの奇跡をにわかに信じることができません。幼い子どもは素直に感嘆しますが、少し知恵がついて来ると、どうなっているのだろう、何か種があるかもしれない、嘘だ!と思うようになります。さらに大人は業の信憑性だけでなくその人物をも何か怪しいと疑い始めるのです。

私たちが出来事を信じるためには、受け入れるためには、確実性が必要です。確かめられないことは受け入れられないのです。しかし私たちの生活の中では確かめられないことは、たくさんあります。自然現象もそうですが、人間関係を考えてみてください。むしろ信じること、信頼によって成り立つことのほうが多いのです。ところが人は奇跡に関しては、疑い深くなってしまうのです。
奇跡を信じるということは、自分の知恵や能力を超えた信じられないことを信じるという、典型的な信仰の行為です。信仰は、自分の内に判断の根拠をおくのではなく、その相手、私たちの場合それは神様ですが、相手にその根拠をおくことにほかなりません。そこには確認や納得などは必要ありません。ただ信じるということだけがあるのです。信じないことからは何も生まれません。むしろ、信じることから、さまざまな事が生まれてくるのです。不安や恐れを取り除き、勇気や励まし、喜びを得るです。もちろん、無批判に信じることは時には危険を伴います。その典型がカルト的な信仰宗教などです。宗教には客観性も必要です。それは歴史、学問的な検証です。

ヨハネ福音書はカナという村で行われた結婚式で、水がぶどう酒に変えられた出来事を、イエス様が行われた最初の奇跡と記し、それを「しるし」と呼んでいます。しるしとは、それ自体が大切なのではなく、そのしるしが示す事柄、神様の働きに目を向けることが大切です。人は目に見えることに心を奪われます。しかし聖書は目に見えることではなく、そこに働かれる神の意志を受け取るようにと示すのです。

旧約聖書では、祝宴は神様がもたらされるものとして描かれます。イザヤ書25章6節は「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。」と記しています。つまり、ヨハネはイエス様の最初の奇跡が結婚式で行われたと記すことによって、それを終末の時に神様のもとで繰り広げられる宴の先取りと考えているのです。しかしそれは後で述べるように、あくまで先取りであり、今ではなく、イエス様の十字架と復活の時がその時なのです。
イエス様と母マリア、弟子たちが婚礼の席に招かれます。当時の結婚式は1週間ほど続きました。ところがその結婚式でこともあろうに、ぶどう酒がなくなってしまったのです。このままでは新郎が恥をかくことになります。それに気づいたマリアがイエス様に報告します。ここでイエス様は不思議なことを言われます。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」自分の母親に「婦人よ」と呼び掛けるのも不思議ですが、ましてや聖書協会訳聖書では「女よ」と訳していますので驚きです。もちろんこのような呼びかけ方は聖書に時代にも異例のことだったようですが、この呼びかけ方には日本語で感じるような軽蔑や拒絶の意味はないようです。そして「わたしとどんなかかわりがあるのです」という言葉も、それは今はわたしたちの仕事ではない、神が働かれ備えてくださると言われているように思います。そしてむしろこの後の「わたしの時はまだ来ていません」と加えていることに意味があります。それはイエス様の力が示されるのは父なる神が決められるのであり、ぶどう酒が足りないという目の前の事態に慌てているマリアの視線を、父なる神に向けようとされているのだと思われます。そしてイエス様の「時」とは、イエス様が父から栄光をお受けになる時であり、十字架と復活の時なのです。

マリアは召使たちにイエス様の言葉に従うように命じました。するとイエス様は召使いたちに清めの儀式ために用意されていた水がめいっぱいに水を汲み、世話役のところに運ぶように命じます。そして彼らが水がめを運ぶうちに、瓶の水は上等のぶどう酒に変わっていました。世話役は味見をし、花婿に「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回ったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。」と言います。

この奇跡物語では、イエス様は特別なことはなにもされていません。奇跡にみられるような特別な言葉もまじない的な所作もありません。ただそこにおられただけでした。しかしこのイエス様がそこにおられることが大切です。イエス様がそこにおられるというだけで、神様が働かれると事態は変わるのです。私たちの心にイエス様を招き、いていただくだけで私たちは変わるのです。洗礼を受けるとどう変わるのですかと質問を受ける場合があります。信仰や洗礼は魔術ではありませんので、すぐに何かが変わるわけではありません。しかしイエス様は、ただそこにおられるだけで水というごくありふれたものを、ぶどう酒という婚礼の式ではなくてはならぬものに変えられました。それはキリストがそこにおられるならば、ありふれた人間でしかない私たちが、なくてならぬものに変えられるということを教えています。