2021年9月12日 説教 松岡俊一郎牧師

自分の十字架を背負う

マルコによる福音書 8: 27 – 38

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人は関係の中で生きています。家族関係や友人との関係、仕事上の関係など。そして相手の人がどんな人かということを無意識のうちに判断して会話し、付き合っています。判断の中には、自分の期待が込められていることがあり、思い込みもあるかもしれません。しかしその判断がいつも正しいとは限りません。間違った判断もあるし、相手の人もいつも同じではないからです。その判断が違った時、相手が豹変したように感じることがあります。しかしそこにはこちらの思い込みもあるのです。今日の福音書は、弟子たちが、そして私たちがイエス様をどのように受け止めているかが問われているように思います。

さて、イエス様はエルサレムから遠く離れたフィリポ・カイサリア地方に行かれました。フィリポ・カイサリアは、ヘロデ大王の息子のひとりであったフィリポが、ローマ皇帝に敬意を表すためにカイサリアと名付けたところです。もう一か所地中海沿岸にカイサリアという町がありましたので、フィリポは自分の名前を合わせつけて「フィリポ・カイサリア」としたのです。ここはガリラヤ湖よりももっと北にあり、ヘルモン山の伏流水がわき出る大変美しいところです。そこには異教の神パンという名の豊穣の神が祭られていました。さらにその脇にはローマ皇帝を神として、皇帝の像が祭られていました。そのような場所で、イエス様は弟子達に「人々は、私のことを何者だと言っているか」とお尋ねになったのです。彼らは「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。他に、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えました。すべて預言者ですから、一般民衆はイエス様を預言者として理解していたことが分かります。イエス様は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになりました。いろいろな偶像が祭られていた場所です。この質問が一番大切で、弟子達の信仰の核心を突く質問でした。これに対してペトロが「あなたは、メシアです」と答えました。マタイ福音書では「あなたはメシア、神の子です」と言い、ルカ福音書では「神からのメシアです」と答えています。これは無理解と勘違いに終始していた弟子達としては百点満点の答えでした。しかし、言葉としては百点だったのですが、ペトロは自分が言ったその言葉が持っている意味は理解していませんでした。理解していなかったというよりは、誤解していたのです。

民衆はイエス様のことを預言者と受け取っていましたが、それはただの預言者ではありません。自分たちにふりかかっている弾圧や差別、貧困からくるあらゆる生活の困窮を解放してくれる改革者としての解放者を期待していたのです。ペトロもそのように理解していたふしがあります。それを悟られたイエス様は、ご自分がこの後、「長老、祭司長、律法学者からに捕らえられ殺され、三日の後に復活することになっている」、と受難の予告をされたのです。すると、ペトロはイエス様を脇へお連れして、いさめ始めました。イエス様を注意するのですから、ペトロはよっぽど思いつめたのでしょう。マタイ福音書では、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言っています。つまり、イエス様が捕らえられて殺されるなど、イエス様をこの圧政と困窮から解放する人として考えていたペトロには考えられなかったし、あってはならなかったのです。これに対して、イエス様は「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責されます。ペトロが、救い主としての使命に生きようとされるイエス様を理解せず、自分のイメージでイエス様を捉え、そのイメージに縛りつけようとしていることへの叱責でした。十字架の出来事は、神様の人間への愛の究極の出来事です。これを抜きにしては、私たちの救いは勿論、私たち人と神様との関係はなくなってしまいます。この十字架の救いこそが私たちに必要であり、この十字架の前で私たちはすべてを受け入れることしかないのです。
「引き下がれ」という言葉は、直訳すると「私の後ろに退け」となります。イエス様の後に従えということです。人間の思いを優先させる弟子たちや私たちではなく、神様の意思を優先する生き方に変われてということではないでしょうか。

イエス様は弟子達だけでなく、群衆に対しても言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来る時に、その者を恥じる。」と言われました。

ここにはイエス様を信じ従う者への覚悟が語られています。イエス様に従うとは、自分たちが思い描くようなヒーローを待ち望み、ヒーローによってすべての問題を解決してもらおうとするものではありません。むしろ一人一人の生活にある重荷をしっかり自分自身で荷なわなければならないのです。それは大変つらいことでもあります。ここには初代教会の抱えていた厳しい宗教事情とキリスト者への励ましが込められています。今の私たちにとっても、自分の生活の課題を負って行かなければならないことには変わりがありません。イエス様を信じればそれが簡単になくなってしまうとか、解決するとか、短絡的になってはいけません。私たちの生活と様々な悩みや困難さは依然としてあるのです。しかし、ただ一つ言えることは、その私たちの負うべき十字架を私たちひとりだけで負うのではなく、イエス様が究極のところで一緒に負ってくださっているということです。マタイ福音書11章28節は言います。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」くびきとは二頭の牛の首に渡した木で、これで重い荷物を運ばせるものです。重い荷物を私一人で負うのではなく、イエス様が一緒に負ってくださり、むしろ私たちが楽に歩めるようにしてくださるのです。人は孤独なものです。ですから悩みや困難さも一人で負わなければなりません。しかしそこにはイエス様がおられます。イエス様の十字架に込められた愛を信じて、私たちはイエス様に従って行きましょう。