2021年9月5日 説教 松岡俊一郎牧師

癒しのみわざ

マルコによる福音書 7: 24 – 37

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今日の福音書は、二つの癒しの出来事を伝えていますが、その内容を読むと、むしろ信仰の出来事を伝えていると言っていいと思います。

イエス様の一行がある家に滞在されていました。イエス様は出来るだけ人目を避けて静かに過ごすことを望んでおられましたが、かないません。イエス様の教えを聞くために、また不思議なみ業を見るために多くの人が押し寄せてきたと思われます。その中に噂を聞いたギリシャ人でシリア・フェニキア出身の女が、幼い娘が汚れた霊に取りつかれているので娘から悪霊を追い出してほしいとイエス様の足もとにひれ伏して願ったのです。詳しいことは分かりませんが、この娘は何かの病気だったかもしれません。当時は、病気は悪霊の仕業と信じられていたからです。いずれにしてもこの女は、どの親もそうするように、娘を抱いてあちこちの医者や祈祷師のことを歩きまわったに違いありません。そしてその度に冷たい仕打ちにあい、高いお金だけをむしり取られ、失望を味わい、苦しみ、もはやすがるもののない状態だったと思われます。彼女にとって外国人であるイエス様をあえて訪ねてくること、それも多くの人の目をはばからず訪ねてくることは、普通では考えられなかったことだからです。

ところがこの女の切実さとは対照的に、イエス様一行の態度は大変冷たいものでした。マタイによる福音書の並行記事を見てみますと、「イエスは何もお答えにならなかった」と記しています。無視されたように見えます。弟子達は「この女を追い払ってください。叫びながらついてきますので」と、助けるどころか、厄介者扱いをしています。イエス様の態度もいつになく冷たく、私たちを驚かせます。

イエス様は「まず子どもたちに十分食べさせなければならない。」と言われています。マタイでは、この前に「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われていますので、なるほどイエス様は御自分の救い主としての使命が、まずユダヤ人にあることを強く意識しておられるがゆえに、この外国人の女に冷たくされたということが分かります。しかし、理屈は分かるものの、私たちは素直に受け入れられない気持ちになります。ところが私たちの気持ちを超えて、ここに信仰による大逆転が起こります。この女はイエス様の冷たい言葉にもかかわらず、あえて「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます」と機知ある答えで切り返すのです。小犬と言うと、私たちの感覚ではテーブルの下でじゃれるかわいい小犬をイメージしますが、ユダヤ人にとって小犬とはそのようなものではありませんでした。彼らは羊を飼うにしても牧羊犬など使いませんでしたから、いわば野良犬です。犬とは乱暴で役に立たず、食べ物を求めてうろつきまわり、人の傷をなめ、戦場では死体を食い荒らすような存在です。小犬はいやしい蔑称の意味で語られているのです。しかしこの女はあえて自分をそのようなものとして、イエス様の前に自分をさらけ出し、救いを求めているのです。信仰とは願い事を請求書のように神様に送りつけることではありません。願いがあろうが無かろうが、その願いが聞かれようが聞かれまいが関係なく、自分を神様の前に差し出すことです。

確かにこの女も最初は娘を救ってほしいという直接の願い事がありました。そしてそれがなくなったわけではありません。しかし、それだけであったならば弟子達やイエス様による何重もの拒否にあって、彼女はとうにあきらめて帰っていたでしょう。しかし彼女は願い事以前に、すでに絶望的な状態にありました。もはやイエス様以外に自分を救ってくださる方はないのです。ユダヤ人の軽蔑の対象となる外国人である者が拒否されるのは当たり前、自分はイエス様の前に出て堂々と話しが出来るような身分ではない、ただパン屑に等しいわずかな憐れみをいただきたい。そのような願いの中で、彼女は自分を小犬に例えることは何でもなかったのです。

しかしこの信仰はイエス様の心を大きく揺さぶりました。女の謙遜で強い信仰にイエス様の心は大きく揺さぶられたのです。そして喜んでこの女と娘に憐れみを注がれたのです。

私たちが日ごろ持っている知恵や力、誇りや自尊心は、私たちの間では意味を持っていても、神様の前では何の意味も持ちません。むしろそれらが神様との出会いの中で障壁になることはあるでしょう。私たちは神様の前に立つとき、ありのままの姿で立つしかありません。弱さや罪深さ、頑なさや脆さ、それらすべてを神様はご存知だからです。いや、私は、むしろありのままで立つことが許されていると考えたいのです。私たちはプライドによって自分を支えていることも確かですが、心の内ですべてのものを脱ぎ捨てたありのままの姿の自分を認めてほしい、受け入れてほしいと願っているのも確かなことではないでしょうか。本当の自分をさらけ出し、それを受け入れてもらうところに真実の平安があります。人間関係の中ではそれはなかなかかないません。しかし、神様はむしろありのままの私たちを喜んで受け入れてくださるのです。その意味で、神様の前にすべての弱さと罪深さを明らかにしてすがるとき、その信仰によって救いと平安が与えられるのです。そこに信仰による救いと平安があります。

さて、イエス様はティルスの地方を去って、シドンを経てデカポリス地方を抜け、ガリラヤ湖へ戻ってこられました。シドンはティルスの北にあり、デカポリスは南東のヨルダン川の右岸の地方ですから、さらにガリラヤ湖はその北ですから、地理的に見るならばこの移動経路は少々無理があります。福音書記者マルコがこのように記した理由は、イエス様が福音をユダヤ人の地だけでなく異邦人の土地まで広く宣べ伝えたかったことにあります。

イエス様はガリラヤ湖のほとりに戻られました。そこに人々が、耳が聞こえず舌のまわらない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願い出たのです。この時代のこのような障碍を持った人たちがどのような生活、特に手話などない時代です。どのようにしてコミュニケーションをとっていたのかわかりません。今から二千年以上前のことです。社会から隔離され排除されていたとしてもおかしくありません。実際に、重い皮膚病の人たちは障碍のある人は悪霊に取りつかれていると考えら社会の共同体から隔離されていたのです。

福音書に登場する人は耳が聞こえない人ですから、自分でイエス様の噂を聞いたわけではなく、周りの人に半ば強引に連れてこられたのでしょう。友人たちは彼を連れて来たのです。ここに友人たちの彼に対する愛とイエス様への信頼があります。この障碍を持つ人はこれまで人前に出ることもなく、目立たないようにこそこそと生きてきたと思われます。そんな人が突然、群衆の中心にいるイエス様の前に連れて来られたのです。緊張と恐れが伝わってくるようです。イエス様の奇跡の業は見せものではありませんから、人前で癒すことをされませんでした。イエス様はこの人だけを群衆の中から連れ出し、一対一で向き合われたのです。そして指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられました。魔術的なしぐさです。しかしそれが魔術でないことは次の言葉から分かります。イエス様は天を仰ぎ、深くため息をつき、そしてその人に向かって「エッファタ、開け」と言われました。天を仰がれたことは、イエス様は父なる神様への祈りであり、深いため息は、この耳の不自由な人のそれまでの苦しみや辛さ、不自由さをしっかりと受け止められたのです。イエス様のため息の中には、そのような気持ちが込められているように思うのです。

イエス様は、この人の耳や口だけでなく、心に愛を注ぎ、彼を慈しみ、その苦しみと不自由さから解放されるのです。この愛はイエス様と向き合う私たちにも注がれています。誰にも話せないような思い、誰にも理解してもらえないような気持、誰とも通じ合うことができない心、そのような私たちの心をイエス様は聞いてくださり、受け止め、愛を注いでくださるのです。そのあかしが十字架です。すでにイエスさまは十字架によって私たちのすべてを受け止めてくださっているのです。

耳は聞こえるようになりました。しゃべれるようになりました。彼は何を聞き、何を語り始めるのでしょうか。彼の耳にまず届いたのはイエス様の言葉です。そして最初に彼の口を衝いて出た言葉は、イエス様への感謝の言葉であったに違いありません。イエス様の言葉を聞き、感謝を述べること、これは人にとって幸せなことです。そのためにイエス様に開いてもらうのです。言葉が生きる瞬間です。

この奇跡を見て人々は驚嘆し、言いました。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださった。」この言葉はイザヤ書35章5節にある栄光の回復の預言の言葉です。イエス様のみ業は、一人の人に向けられた奇跡にとどまらず、神様の救いの成就でもあったのです。イエス様はこの癒しの出来事を人々に口止めされました。しかし、それを止めることはできませんでした。なぜならば、多くの人々がその癒しと救いを必要としていたからです。私たちにもその救いが必要です。私たちが必要とする限り、その救いは留まる事がないのです。