命のパン
ヨハネによる福音書 6: 35, 41 – 51
先月の20日に入院して、翌21日に前立腺癌の小線源治療という手術をしました。癌のある臓器に放射線を発する小さな物質を60個ほど埋め込んで、体内から癌細胞をやっつけるという治療です。手術と同時に24時間食事と水分を断ち、ベッドに寝たきりを強いられました。三食抜いただけでしたのでそれほどの空腹感は感じなかったのですが、水分を取れなかったのと寝返りも打てなかったが辛かったです。先週の木曜日からは外から放射線をあてる治療が始まりました。9月7日まで週5日、5週間続きます。今のところ合併症などはまだ出てきていませんので普通に生活しています。お支えとお祈りを感謝いたします。10年生存率が90%以上という癌の中では治りやすい病気で安心していますし、腎臓癌も経験していますので、病気に対する精神的な免疫はほかの人よりもあるかなと思ってはいますが、やはり時折命ということを考えてしまいます。まだまだやらなければならないことは山ほどありますので、弱気になっていても仕方がないのですが、命は限りがあるものですから、その心の備えはいつでも必要かなと思ったりしています。そしてその命の意味と質をしっかりととらえておくことが大事だと思っています。
さて、イエス様が五つのパンと二匹の魚で5千人以上の人々の空腹を満たされた奇跡は、すべての福音書記者が何度も記しているように、人々にとって衝撃的であったと思います。イエス様のところに集まってきたガリラヤ湖周辺の人々は、決して豊かな人ばかりではなかったはずですから、肉体的な空腹を満たすという奇跡は、毎日の生活や暮らしに苦労していた人々には希望を与えたのです。しかしイエス様が意図されていた奇跡の意味が正しく人々に伝わったかどうかは別です。むしろ理解していなかったと言っていいと思います。6章28節では「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」とイエス様は指摘されています。人々が捜していたのは、自分たちを目の前の貧しさや飢えから解放する人でした。しかしイエス様は一時的に人を救うのではなく、まことの命を生きるようにするためでした。「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった」と言われるように、イエス様にとっての命とは、生と死によって限界づけられた限りある肉体的な命ではなく、父なる神様との関係の中で生きる命でした。この誤解は、私たちも気を付けなければならないものです。私たちも一時的な平和や願いが満たされるようにと祈り求めるからです。まず願うべきことは、私たちの欲求ではなく、神様との関係の中にある平安であり、命です。人は神様との関係の中でこそ本当に生きると言えるからです。
イエス様は「わたしは天から降って来たパンである」と言われました。ここには二つのことが言われています。一つはイエス様が天から降ってきたということと、もう一点はイエス様がパンであるということです。ユダヤ人たちは、初めのこと、イエス様が天から降って来たことを問題にしました。彼らはイエス様の出自、ヨセフの息子で父も母も知っていると言います。マタイによる福音書の13章55節では、奇跡を行ったイエス様に対して、「この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちはみな、我々と一緒に住んでいるではないか。」と言っています。人としてのイエス様にだけ注目して、知っているということが、かえって人々の目をふさいでいるのです。ヨハネ福音書は、冒頭で「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と言っています。これがイエス様の本性です。人間としてのイエス様はその一面でしかありません。人々はこの一面に捉われてイエス様の本当の姿を見ることが出来ないでいるのです。
もう一点は、イエス様がパンであるという事です。これは私たちには聖餐式を思い起こさせます。昨年から聖餐式をすることが出来なくなって寂しい限りですが、聖餐式は礼拝の中心の一つですし、亡くなられた方々と私たちを結ぶ天の食卓との交わりの時でもありますので、近いうちに再開することを願っています。最後の晩餐の夜、イエス様はパンと葡萄酒を取り、「これは私の体である、また罪のゆるしの血」と言われ、弟子たちに与えられました。ここでは目に見える形ではパンと葡萄酒・ぶどうジュースですが、イエス様が何か物を与えるのではなく、命のパンとして自らを私たちに差し出し、真の命を与えられるのです。その与え方は言うまでもなく、十字架にかかることによって私たちに命をささげられるのです。人の目には敗北にしか見えない十字架の死が、人を永遠の命へと導くのです。十字架の血によって清められた者はイエス様を食する者です。イエス様はこのパンを食べるならば、その人は永遠に生きると言われます。それはイエス様を信じる者が、肉体の死という限界を超えた永遠の命に生きることが出来るからです。そこは時間の枠を超えた信仰の世界です。この信仰の世界に生きることが、私たちに用意された永遠の命です。
私たちの毎日は、不安と不確かさの毎日です。新型コロナウィルス感染確認者が毎日4千人、5千人数えられています。お盆休みの時期でも帰省を制限する呼びかけがあり、集まるなと言われながらオリンピックが開催されました。矛盾する政治的メッセージの中でいったいどのような生活をすることが正しいのかわからなくなっています。しかし私たちにとって確かなことは、イエス様が私たちを永遠の命へと導いてくださっているという事です。どんなに不確かな時であっても、十字架による救いは確かなことですから、私たちはそこだけをしっかりととらえていきたいと思います。