嵐よ 鎮まれ
マルコによる福音書 4: 35 – 41
主は、弟子たちを促して向こう岸へ渡ろうとします。途上で嵐に見舞われ、弟子たちはおののきます。主は立ち上がり「嵐よ 静まれ」と仰る。すると嵐は静まった、という場面です。このような危機が人生にはあります。危機、これは「向こう岸へ」渡っていく途上、未知の世界に入っていく時のことです。ほんとうの「危機」とは一体何なのでしょう?それは、心に生ずる「疑い」です。弟子たちに主イエスは仰います。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」恐れの正体は「疑い」であることを示し、信仰によって疑いに打ち勝つ力をお与えになったのです。 教会も主とともに向こう岸へ渡って行くときに危機に遭遇し恐れる場面があります。もしこちら側で穏やかに、みことばを聴き、パンを頂いて平安に満たされている限り、危機に見舞われることはありません。しかし、弟子、使徒たちは、みことばを伝えるために向こう岸へ渡って行くように求められています。その途上で危機に見舞われます。伝道の生涯を送った使
徒パウロは、さまざまな危機の連続でした。その度に「ともにいましたもう」主キリストに祈り訴え、危機に勝利しました。「全てにおいて勝って余りある」と言っています。もしパウロが船に乗って危機を超えて伝道することをせず、書斎にこもっていたら、向こう岸の教会への手紙も生まれなかったし、新約聖書もなかったでしょう。
使徒に続く教会の歴史は、向こう岸へ渡っていく伝道の歴史でした。その途上で危機を経験、信仰を強められました。大岡山教会も、向こう岸へと、はるばる渡って来た宣教師の伝道のおかげです。ここに教会が、幼稚園が生まれ、幼児から高齢者まで、みことばのタネが撒かれ続けてきました。
個人の人生にも危機があります。向こう岸の未知の世界へ入って行くときです。子供から大人へ、さらには高齢者の仲間入りの段階へ。最後には、人生の終わりを迎えるとき。疑いの嵐、危機に遭遇するかもしれません。その只中で慄くときに、「嵐よ 静まれ。なぜ疑うのか」とのみ声が聞こえます。全ての危機、死をさえ潜り、復活なさった主は、ともにいます。ありがたいことです。