誘惑と試練
マルコによる福音書 1: 9 – 15
イエス様が荒れ野で40日の間食事を取らず、空腹になられた後、悪魔から誘惑にあわれた出来事は、マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書が等しく伝えている出来事です。今日の福音書の日課のマルコは、「サタンから誘惑を受けられた」とだけ記していますので、もう少しこの出来事を理解するために他の福音書の力を借りましょう。イエス様は40日、荒野にとどまられました。40といえば、聖書にはたびたびこの40という数字が出てきます。モーセがシナイ山で戒めを再度いただいた際、彼は40日40夜食事も水もとりませんでした。エリヤが神の山ホレブに上った際も40日40夜歩き続けました。そしてイスラエルの民がモーセの導きによってエジプト脱出を果たした後、40年の間荒れ野をさまよい荒れ野にとどまりました。そして今日、イエス様は40日間荒れ野にとどまって悪魔の誘惑にあわれているのです。
悪魔の誘惑の一番の狙いは、人を神様から引き離すことです。そして悪魔の誘いは、それとすぐ分かるような仕方ではやってきません。むしろもっともらしく、積極的な考えのように迫ってくるのです。最初の誘惑である「石をパンに変えてみなさい」という言葉も空腹のイエス様に対するむしろ空腹を満たすための良い解決策としての声かけなのです。もちろんイエス様にとって石をパンに変えることなどたやすいことでした。しかしイエス様の力はご自分のためではなく人の救いのために用いられるのです。そしてそれを申命記の言葉「人はパンだけで生きるものではない」を用いて、神様のみことばが何よりも大事でありすべての事柄の中心であるということを教えられるのです。第二の誘惑では悪魔はイエス様を高い所に引き上げ一瞬のうちに世界のすべての国々を見せます。そして「この国々の一切の権力や繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ」と言います。権力と繁栄が悪魔の手に任されているということは、とても意味深なことですが、悪魔はそのためには「わたしを拝みなさい」という条件を付けるのです。権力と繁栄にはいつも悪が付いて回るわけではありません。確かに政治的権力や経済的な事柄には不正が付きまといます。しかし純粋に世の中を良くしようと考える人もまた、権力や繁栄の力があれば、それがより早くより確実に実現できると考えるのです。しかしそこにはいつも落とし穴があり、悪魔を拝む、悪魔を絶対者とする誘いがあるのです。このような誘いに対してもイエス様は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と退けられました。人は絶対的な力を持つ必要はありません。いたずらにそれを求める心は、自分が神となろうとしていることにほかなりません。そしてそれこそが悪魔を主と拝むことなのです。第三の誘惑として、悪魔はイエス様を神殿の屋根の端に立たせます。そしてイエス様がみ言葉を用いて反論されるのを逆手にとって「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。詩編の言葉を用いて『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる』また『あなたの足が石に打ち当ることのないように、天使たちは手であなたを支える』」と試みるのです。これは神さまの力を証明することへの誘いです。不思議な力をしてみせるということは、神さまの力を知らしめるためには有効です。しかし、神様ご自身はそれを必要とされません。むしろそれは神様に信頼せず、試すことに他ならないのです。このように悪魔はいつももっともらしいことを言って誘ってくるのです。
それでは、悪魔はどんなときにその誘いの言葉をかけてくるのでしょうか。イエス様の場合、荒れ野で40日間飲まず食わずの状態でした。荒れ野という環境をわたしたちはなかなか実感できないのですが、そこは昼間は暑い日差しが照らし、夜は逆に急激に温度が下がります。乾燥し、植物も育たないような場所です。それなりの準備とすべを知っていなければ、命が脅かされる環境です。そんな場所での極限的な空腹、それは肉体だけでなく精神的にも弱り果てる場所なのです。肉体的にも精神的にも満ち足りているときには、悪魔の誘いがあったとしても、それをはねのけるだけの力があります。しかしそのような力がないところ、弱った心に悪魔はつけ狙ってくるのです。
ここでイスラエルの民の荒れ野の40年を思い出してみましょう。イスラエルの民はエジプトから脱出した後、すぐに約束の地に行くことはできませんでした。エジプトから約束の地までは、直線距離にして300キロほど、山越え、谷越えしながら、回り道をしたとしても40年もかかる距離ではありませんでした。そこには実際には何十万人という民族の移動、ルート探し、先住民との争い、食糧や水の調達や確保などいろいろな問題があったと思いますが、彼らが40年もかかった一番の理由は旅の途中でイスラエルの民が起こした神様への不信に対する裁きでした。荒れ野での旅の途中、彼らは渇きと空腹に襲われます。そこで彼らはエジプトで奴隷であった時のほうがよかった。あの時には肉鍋を食べることさえできたと、モーセに恨み言を言うのです。この時、神様はマナを降らせて民の空腹を満たされます。メリバというところでは飲み水がないと言ってモーセと争います。ここでも神様はモーセに杖で岩を打たせ湧水を与えられます。このような度重なる民の不信仰の責任を取る形でモーセは約束の地に入ることができず、ヨルダン川をはさんだモアブの地で死ぬのです。イスラエルの民もまた、自分たちの背信の罪を償うために世代交代が必要でした。実際には、彼らはカデシュ・バルネアという場所で、30数年とどまることになります。30数年というのは、人がそこに根を下ろすには十分な年月です。どんなに神様の約束の地があろうとも、そこで生まれた人も30歳になっているのですから、そこを故郷と考えてもおかしくなかったのです。出エジプトを経験した人々も、もはや老人になって、今更ながら荒れ野を旅する気になどはならなかったはずです。このように神さまの約束があったとしても、もうどこにも行きたくない、ここでじっと暮らしたちという思いが強かったのではないかと思うのです。これはイスラエルの民を神様のみ心から引き離す大きな誘惑ではなかったかと思うのです。
このように見ると、イスラエルの民にとって荒れ野の40年は誘惑にあいっぱなしの40年であったように思うのです。荒れ野を旅しているときも、一つの場所にとどまって暮らしているときも、いつも神様の命令に背き、自分たちの思いを優先させようとしているのです。わたしは悪魔の誘惑とは、このような日常の中に潜んでいるように思います。精神的に疲れている時、病気などで肉体的に弱っている時、わたしたちは神様にすがりながらも、不安や不幸を嘆くことがあります。み言葉に聞くのではなく、他の方法で解決しようとしたりします。もちろん病気などは祈りつつも病院に行くなり養生することは必要です。しかし、生活の具体的な問題が起こった時には、祈ることを忘れ、自分自身の思いに自分で振り回されてしまうのではないでしょうか。生活が満たされている時もまた、自分たちの生活を守ろうと神様の教えや導きに目をつぶろうとすることはないでしょうか。悪魔はわたしたちに日常の中に、そして積極的で合理的な姿を取って近づいてきます。
それではわたしたちは誘惑にあいそうになった時、どのようにしたらいいのでしょうか。悪魔はわたしたちの弱さを知り尽くしていますから、わたしたちが素手で立ち向かおうとしても、さまざまな方法、言葉、考えで上げ足を取ってきます。それに立ち向かうためには、ご自身悪魔を退けられたイエス様にすがるしかありません。悪魔はわたしたちを神様から遠ざけようとするのですから、その対抗策としては、かえってわたしたちのほうからイエス様にしがみついて生きるしかないのです。