2020年12月27日 説教 松岡俊一郎牧師

救いを確信する

ルカによる福音書 2: 22 – 40

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今年の大岡山教会は、新型コロナウィルスの影響によってイースターもペンテコステもクリスマスイブ礼拝もできませんでした。またそれらにともなうレント音楽礼拝、イースター親子礼拝、ペンテコステガーデンパーティ、クリスマスコンサートもできませんでした。また集っての主日礼拝を休止するというこれまでに私たちが経験したことのないことまで起こりました。なんとなく無力感、喪失感を感じる一年でした。しかしかといって、何もなかった、すべてを失ったわけではありません。教会は礼拝堂の耐震工事と集会室の大型改修工事が成功しましたし、幼稚園は隣接地を購入し新園舎の建設に着手しています。つまり外にむかっての活発な伝道はできませんでしたが、伝道の備えとしての器づくりは着実に歩んだと言ってよいと思います。今は耐え忍ぶ時と自分に言い聞かせています。

出エジプト記13章によると、人であれ家畜であれ、初子は主に捧げなければならないという律法がありましたから、イエス様の両親もその律法にしたがってイエス様をエルサレム神殿に捧げに行きます。しかし別の律法(レビ記12章1~4節)では、出産後40日間はけがれているとされ、清めの期間が必要でした。この期間は聖なる場所に行くことはできませんでしたから、両親はその期間が終わってから、神殿に詣でたのです。初子の奉献といっても神殿では実際には羊や山羊などの動物を捧げます。しかしレビ記5章7節には貧しくて手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩でもよいことになっていました。つまりヨセフとマリアが鳩を捧げたということは、彼らが貧しかったということでもあります。いずれにしても、両親はイエス様を育てるために律法に忠実に従っていたことがわかります。

毎年初詣はどこも賑わいますが、今年は感染防止のために分散参拝を呼びかけています。エルサレム神殿の境内のにぎわいは、各地からの巡礼者もあって、いつもの日本の初詣の賑わいに似ていたと思われます。そのエルサレム神殿はメシアが来られる場所と預言されていました。「見よ。わたしは使者を送る。彼はわが前に道を整える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。」マラキ3章1節はそう述べています。今日登場する二人の老人もその預言を信じて毎日神殿を訪れていたと思われます。一人目の老人、シメオンは毎日神殿に出かけていました。後で出てくるアンナは、84歳という年齢が記されていますが、シメオンに関しては年齢が書かれていません。しかし29節を見ると彼も高齢であったと考えられます。アンナには預言者と記されていますが、彼については何も書かれていません。祭司であったとの説もありますが、わかりません。
余談ですが、私が一昨年甲府教会を兼任していたとき、土曜から泊まって行っていました。泊まっていた牧師館にもお風呂はもちろんあったのですが、一人で沸かして入るのももったいないと思い、またリラックスもかねて、近くの日帰り温泉に行っていました。ある日、受付で「今日はオキナの日ですから、半額です」と言われてびっくりしました。「オキナワ」の日?と思ったのですが、「翁」高齢の男性のことだったのです。私はまだ60をちょっと過ぎたばかりだったので複雑な心境でした。このシメオンはこの翁と呼ぶにふさわしい年齢だったと思います。今では80歳ぐらいが翁と呼ばれるにふさわしい年齢と思いますが、聖書の時代は60歳でも高齢とされました。実際にはいくつだったかはわかりません。彼は神が救い主を遣わしてエルサレムを救ってくださると堅く信じて熱心に神殿に通っていたのです。聖書は聖霊が彼の上に留まっていたと言います。つまり彼の信仰を聖霊が支えていたのであり、信仰には聖霊の働き必要であることがわかります。

赤ちゃんイエス様が両親に抱かれながら神殿に入ってきました。シメオンはそれがメシアだと確信します。赤ちゃんはどう見ても赤ちゃんです。それを救い主と確信するためには、人の思いだけでは見抜くことはできません。聖霊の働きがなければならないのです。彼は聖霊によって信じていたことが実現したと確信したのです。彼の前には布にくるまれた、まだ何もしていない、この先どうなるかもわからない赤ちゃんがいるだけです。しかし彼にとってはそんなことはどうでもよかった。聖霊が示したそのことだけで十分だったのです。シメオンにとって預言は成就したのです。そこで彼は讃美します。シメオンの賛歌と呼ばれるこの詩は、ナジル人の祝福の言葉であると指摘されています。ナジル人とは、民数記の6章に書かれていますが、民族の名前ではなく、神様に誓願を立てた聖別された人のことです。代表的な人としてサムソンがいます。生涯ナジル人として送る人もあれば、一時的な期間だけ誓願を立てる人がいました。そしてその請願の後に祝福が与えられますが、このシメオンの賛歌がそれにあたると言われます。
「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかにさらせて下さいます。」これはわたしたちが礼拝の中の派遣の部で歌っているヌンク・ディミティスの言葉です。ここで彼はもう救いを見たと言っています。赤ちゃんは、まだこの先どうなるか、救いがどういう風に実現するか分からない状態です。しかし、彼は赤ちゃんイエス様を見ただけで、この幼子の中に救いを見るのです。確かにイエス様は十字架によって救いを実現されます。それをどれだけ彼が予見できたかはわかりません。しかし彼は母マリアに「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」と伝えました。さらに「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と言っているのは、マリアが息子であるイエス様の葬儀を出さなければならなくなるという悲しみを暗示しているのです。

これらのシメオンの祝福は、預言者アンナによって確認されます。彼女もまた昼夜を問わず神殿を離れず主に仕えていました。彼女もまた、赤ちゃんイエスを見て近づき、人々のイスラエルの救いが実現したことを語ったのです。

人の気づきは関心のある人にだけ訪れます。待ち望んでいた人たちだけがメシアの到来に気がつくのです。メシアが来ることは知っている、しかし、今は目の前の生活のことに追われている、そういう人は、メシアが来てもみ言葉を通してメシアが来られたことが伝えられても気がつかないのです。神様の救いは、神の救いを確信する人だけに安らぎが与えられるのです。ヘブライの信徒への手紙11章1節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあります。私たちの希望は信仰の確信の中にあるのです。

一年の終わりを迎えました。今年は大変な年でした。人によっては救いがないような年末を迎えている人がいらっしゃいます。しかし神様はイエス・キリストの十字架をとおして救いをすでに完成して下さいました。私たちはそれを信じて歩むだけです。社会的な問題、個人的な問題が解決することが救いではありません。そのような救いは次の瞬間また新たな問題が起きて、救いようのない状態に舞い戻ってしまいます。真実の救いは信仰において、私たち自身の内面で起きるのです。救いは私たちが神様と一つとなることす。そのために神様はひとり子を私たちに遣わし、十字架によって救いを実現して下さいました。それはすでに実現しました。私たちもその真実を胸に、救いのないようなこの社会の歩みを歩んでいきたいと思います。この一年、礼拝を通してみことばを学び、賛美と祈りを一つにし、信仰を育んでこられたこと、皆さんと共に歩めたことを心から感謝いたします。新しい年もますます主の福音を多くの人々に宣べ伝えていくことが出来るように共に励みましょう。