みことばによる成長
マタイによる福音書 13: 1 – 9, 18 – 23
マタイによる福音書の13章はいくつかのたとえ話が語られます。
農業は土づくりというように、作物を育てる基本は土づくりです。腐葉土や肥料をやり、耕して、種をまき、太陽と水と風によって育ちます。様々な研究がされ、環境や害虫に強い品種が生み出され、実際に農作業をする人の丁寧で根気のある世話があって初めて良い作物が育ちます。
現在のイスラエルは農業国で大変近代的な農業が行われていますが、パレスチナ人は昔ながらの方法で農業をしているといわれます。彼らのやり方は、荒れ地にまず種をまいて、それを耕すのです。ですから、道となっている場所や、石だらけの土地に落ちて無駄になる種もたくさんあったのです。今日のたとえ話の背景にはそのような事情がありました。たとえ話ですから目的があります。18節には「御国の言葉を聞いて悟らなければ」とあるように、神様の教えをどのように受け止めるかということが大切です。
ある種は道端に落ちました。そこは耕されてないために、露出したままで鳥に食べられてしまいました。これは悪い者が来て心の中にまかれたものを奪い取ることをたとえています。イエス様が鳥と表現し、マタイが悪い者と説明しているものが、具体的に何を指しているかはわかりません。イエス様は当時の聖書を形骸化し、権威主義を振り回していたユダヤ教の指導者たちを思い浮かべておられたかもしれませんし、マタイの初代教会では間違った教えを教えるグループ、のちに異端と呼ばれるようなグループや教えをイメージしていたかもしれません。
現在の私たちにも、み言葉の精神とは違った教えが存在します。また団体として存在するだけでなく、私たち自身も教えを自分の都合のいいように解釈してしまう事もありますから注意しなければなりません。
別の種は石だらけの土の少ない所に落ちました、そこは土が浅いので、すぐに芽を出しましたが、根が浅く日照りにあって枯れてしまいました。これはみ言葉を聞いてすぐに喜んで受け入れるが、自分に根がないのでしばらく続いても、艱難や迫害が起こるとすぐに躓いてしまう人と説明されます。
誰もが身に覚えがあるような気がします。特に聖書の言葉を知識や道徳的に受け止めるとその傾向が強いかもしれません。一時の興味や関心、悩みや課題で苦悩している時にはみ言葉に惹かれますが、その気持ちが遠のいたり、問題が解決すると聖書から離れてしまうのです。み言葉が心に浸透せず、信仰として生まれないのです。み言葉に向かう心が信仰にならなければ、状況の変化でそこにとどまることを必要としませんので、離れてしまうのです。
さらにもう一つの種は、茨の間に落ちました。芽を出しましたがまわりの茨が成長を妨げてしまいました。これは世の思い煩いや富の誘惑がみ言葉をふさいで実らない人のことだと説明しています。
これは時代の変化が著しい現代の一番の要因ではないでしょうか。情報が多様化して、何が正しいのかそうでないのか判断がつきません。10年前の常識が今の非常識になっているほど価値観の変動は激しいのです。ジェンダーと呼ばれる性差別のことも、以前は眉をひそめながら語られましたが、まだまだ問題はあるものの、今では公然と認められるようになりました。さらに10年前は当然、あるいは普通と考えられてきた叱咤激励もちょっと行き過ぎるとパワハラといわれ、あからさまな場合だけでなく親しみの行為がセクハラと言われます。時代の流れについていけないシニア層にとっては暮らしにくい時代になりました。また新型コロナウィルスが起こってから、私たちの生活が一変させられています。一昨日も先輩牧師と話をしたのですが、礼拝の在り方も今までとはまったく違う姿が求められて来ているがまだそれが見えないという戸惑いを感じています。また、私たちの時代は経済中心の社会ですから、私たちの心は富や財産に左右されているといっても過言ではありません。何が正しいのか、何を頼りに生きているべきなのかが判断できにくい時代に生きています。そのような中でみ言葉に生きることの難しさも感じます。
最後に良い土地に落ちた種はすくすくと成長し、実を結んで、百倍、六十倍、三十倍の実りを生み出しました。これはみ言葉を聞いて悟る人はその人が成長するだけでなく、多くの実りをもたらすことを言っているのだと思います。
さて、種はいくつかの場所に落ちましたが、これらのことは、人を分類するというよりも、一人の人の中に様々な側面、場面があると考えた方がいいと思います。私たちの出会っている状況、環境、出来事、そしてその時の私たちの気持ち、みんな違います。それぞれの場所でみ言葉で出会いしますが、そのときに私たちの心がどうみ言葉を受け止めるかが大切なのです。
最後に、今の私たちにとってみ言葉の種をまくとはどういう事でしょうか。聖書の教えを伝えることでしょうか。もちろんそれは礼拝をはじめとして様々な方法で教会がなすべき必要なことです。しかしそれだけではないように思います。み言葉を宣べ伝えるとは知識の伝達ではありません。むしろ神様の愛のみ旨を伝えることです。それはどのようにしたら伝わるでしょうか。それはみ言葉によって気づかされた私たちが、神様の愛を実践することです。証しの生活をすることです。それぞれに使わされた生活や仕事の場所で、言葉に表さなくてもキリストの愛がほとばしるような毎日を心がけることだと思います。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」