聖霊の働き
使徒言行録 2: 1 – 21
ヨハネによる福音書 20: 19 – 23
外出自粛が求められ、仕事もオンラインで在宅勤務の人が増えています。会議もオンライン会議で行われ、教会も本教会常議員会も教区常議員会もJELAの理事会もすべてオンラインになっています。このオンライン会議は、画面に出てくる映像・発言に集中しますので、無駄がありませんが、その分結構短時間でも疲れます。仕事の効率からいったらいいのかもしれませんが、それ以外の空気感に慣れた世代としては何ともなじめないでいます。礼拝休止の期間、オンラインで礼拝をしている教会が増えていました。どれだけの利用があるのかわかりませんが、入院しているY姉は、日曜日ごとにいろいろな教会の礼拝に参加しましたと教えてくれました。他の教会の先生の説教を聞ける機会にもなるので、それはそれでいいかなと思います。
復活されたイエス様が天に昇られた後、弟子たちは一つ所に集まって礼拝を守っていました。彼らの中には復活を喜ぶ者、昇天を悲しむ者、信じられず疑う者、どう考えてよいか迷う者、依然としてユダヤ人たちを恐れていた者などいろいろいたと思います。それは一人では乗り越えられないことの連続であったと思います。弟子たちはイエス様の復活と昇天について繰り返し語り合い、その意味を受け止めあっていたと思います。そこには信仰がはぐくまれる姿がありました。
私たちは今、二重の意味で「集う」ことが制限されています。一つには礼拝堂が工事によって使えないという事、もう一つは言うまでもなく新型コロナウィルスの感染防止のために二か月にわたって礼拝を休み、さらに「集まる」ことへの自粛が求められているからです。礼拝は私たちの信仰を育てるものです。その意味で「集う礼拝」が守れないという事は私たちの信仰の危機ということを感じます。私たちは礼拝で語られるみ言葉と聖餐式を中心とした交わりによって教えられ育てられます。そういう私たちはいつも熱心な信仰によってだけ礼拝に集うわけではありません。そうではなく集う事によって熱心にされると言っていいと思います。それだけ礼拝を中心とした教会は私たちにとって大事なものだと思うのです。
今日の旧約聖書の日課は、天地創造のお話です。そこでは人間の創造も語られます。神様が土の塵を集め、人の形をつくり、そこに神の息、聖霊を吹き込まれます。そして人間の創造を良しとされるのです。ここから言えることは、人の命には神様の意志と聖霊が与えられて「生きた者となった」ことを教えます。世界の歴史ではいつの時代も、間の命は大切と言われる一方で軽んじられてきた歴史があります。戦争や事件にしても、病気にしても死者は数としてしか表されません。しかし奪われる命、失われる命には、存在と人生があり、その人を取り巻く家族や友人がいるのです。何にもまして人の命には神様の意志が働き、生きる力が与えられているのです。
聖霊降臨の出来事に目を向けて見ましょう。使徒言行録によれば、弟子たちは集まって祈っていました。復活の主が送ると約束された弁護者、聖霊を待ち望むために集まっていたのです。そこに聖霊降臨が起こりました。突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響き、そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人一人の上にとどまったのです。そして、人々は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出したのです。宣教の始まりです。そこにはいろいろな地方の人たちがいました。弟子たちの多くは、ガリラヤ地方の出身です。ガリラヤ地方のことばには独特のなまりがあったと言われますから、他の人たちは、弟子たちがガリラヤ出身だとすぐわかったのです。しかし弟子たちはガリラヤのなまりで話すのではなく、そこにいた他の人々の出身地の言葉で話し始めたのです。そこには外国の人たちもいました。彼らはその外国の人たちにもわかるように話し始めたのです。それはある人には不思議なことに思え、ある人々にはお酒に酔ったように見えたようです。しかしペトロをはじめとして弟子たちは、預言者ヨエルの言葉をもって預言の成就を知らせたのです。
繰り返しになりますが、彼らが集まっていたのは、イエス様が命じられた聖霊を待ち望む祈りのための集まりであり、主イエスの復活を世界に宣べ伝えるための拡がりです。
聖霊降臨が起こった結集は、聖霊を待ち望む祈りのためでした。それは神様のみこころによる結集です。そして神様に信頼し、力を求めるのです。ここでの弟子たちには何の前提もありません。彼らはイエス・キリストの十字架の死によって、空っぽの状態でした。それまで弟子として培われてきた知識も名誉も十字架の前でなくなってしまっていましたし、十字架の前ではイエス様に従う信仰さえも失っていたのです。しかしその空っぽの彼らに復活の主はもう一度命を与えられるのです。それは人が最初に創造された時のように、聖霊を吹き込まれて生きたものとなるのです。
聖霊降臨によって、聖霊を吹き入れられ、命を与えられた弟子たちは、今度は派遣されます。そしてこの派遣には、使命が与えられます。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがた赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」罪の赦しの使命です。これは大変大きな使命です。本来神様だけが出来る罪の赦しの権能を、何の力もない弟子たちに託されるのです。そして弟子たちはこの使命が与えられ、聖霊によって送り出されて全世界に派遣されていくのです。私たちの教会も神様の霊を求める祈りの集団となるとき、そこではみ言葉が語られ、聖霊の導きによって聞き取られます。そこには聖霊が吹き入れられるのです。そして聖霊を吹き入れられた私たちは、み言葉を携えてそれぞれの生活に散らされていくのです。それは証しと伝道への派遣です。
しかし、遣わされるためには「集うこと」が必要です。私たちは忙しく、日常の生活、仕事に追われ、時には神様への信仰を忘れたり、距離を置いたりして生活しています。冒頭に申し上げたように、そのような私たちであるからこそ、み言葉に教えられ、祈りと交わりによって支えられ、育てられる必要があるのです。この教会の営みに連なることによって私たちは派遣されるのです。来週から、私たちは再び集うことがゆるされます。そこに神様の祝福があることを確信します。そして聖霊の風が注がれ私たちを宣教の使命へと再び送り出されるのです。