2020年5月3日 説教 松岡俊一郎牧師

イエスの門を通る

ヨハネによる福音書 10: 1 – 10

ゴールデンウィークに入りましたが、今年のGWはコロナの影響で、いつもとだいぶ様子が違います。天気もいいしどこかに出かけたいと思っても、外出の自粛、公園や遊戯施設は閉鎖され、県境をまたいではいけない。特に東京からは来てくれるなと言われているからです。東京に住んでいると、何だか嫌われ者になったみたいでいい気持がしません。これらの不満は、病気の恐怖と相まって、私たちを言い知れぬ不安に陥れます。人々の心にイライラが募り、DVや虐待が増えているといいます。私たちはどこに向かっているのか、いつまでなのか手探りの状態です。今日の福音書では、イエス様はご自分のことを門と言われています。私たちはその門にどのようにたどり着くのでしょうか。

福音書の日課では、イエス様が羊のたとえを用いて語られています。聖書には羊や羊飼いがしばしば登場してきますが、一般の日本において羊は動物園や牧場で見ることはあっても、羊飼いの姿を直接見ることはほとんどありません。しかし、聖書の世界の中では、羊や羊飼いの存在は日常的で大変身近なものでした。有名なダビデ王も若い頃は羊飼いでしたし、皆さん良くご存じの詩編23編も、作者は神様のことを羊飼いとして深く信頼し賛美しています。
羊飼いたちは、羊を自分の子どものように大切にし、一匹一匹に名前を付けて特徴を把握していたと言います。そして遊牧民でしたから寝起きも共にしていたのです。羊飼いたちの持つ杖は獣を追い払い戦うためのものでした。旧約聖書の少年ダビデが巨人ゴリアテと戦った時に用いた石投げの道具も獣と戦う道具であると同時に、群れを離れる羊がいると、鼻先に石をおとして群れに引き戻すためだったと言われます。そのように羊飼いが羊一匹一匹を大切にするのですから、羊もまた羊飼いの声を聞き分け自分の飼い主が誰かということを知っていたのです。羊と羊飼いは深い愛情と信頼で結びついていたのです。
このような背景の中で、イエス様は羊と羊飼いのたとえを語られています。しかし、今日の福音書の日課の初めの段落のたとえについて、それを聞いていたファリサイ派の人々は、その意味が分かりませんでした。羊と羊飼いという、どんなに身近なたとえをもって話されたとしても、はなから聞く耳を持たない人は悟ることができないということでしょうか。イエス様とファリサイ派の人々の間には、信頼関係が成り立っていなかったのです。信頼関係のないところでは、どんな言葉を持っても通じませんが、信頼関係があるならば、拙い言葉でも相手に届くのです。
しかし、イエス様はそれで終わりにはされません。今度は「わたしは羊の門である」と言われます。そして羊はその門を通るし、イエスという門を通ってこそ救いに至ることができると言われるのです。人は救いのために考え、様々な努力をします。救いとまで言わなくても、幸せや豊かさのために努力します。毎日の暮らしや仕事はそのためのものと言っていいと思います。しかし、道を間違ってしまうならば、違う門にはいってしまうならば迷ってしまい、以前よりももっと不幸になったり、空しい生活になったりすることがあるのです。最初に申し上げたように、私たちは混乱と不安のゆえに、その門を見失いそうになってはいないでしょうか。
イエス様は、ご自身こそが人を救いに至らせるための門であると断言し、この門を通って行くように勧められます。私たちが目指す門をイエス様はしっかりと指し示しておられるのです。
さらにイエス様は、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と語られます。ここにイエス様が自信をもって自分を通れと言われる根拠となる言葉があります。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」これは直接には、羊飼いが獣から命がけで羊を守るように盾になることを言っていますが、イエス様は十字架の死によって神様へのとりなし、あがないになることを語っておられます。
人は神様に愛されるために生まれ、生きています。そして神様もまた、私たちが神様を信じ愛して生きることを願っておられます。しかし実際の私たちは神様のことを知りません。知ったとしてもあまり関心を払わず、その教えに従わず、神様を神様としてあがめ従うどころか、自分を神としてしまう過ちを犯してしまいます。聖書はそれを罪と呼びます。しかし神様の愛は不変です。その愛のゆえに神様はその独り子であるイエス様を十字架にかけることによって私たちの罪をゆるし、イエス様ご自身もまた命をかけて私たちを救いの道へと導いてくださったのです。これが「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」の意味です。これが良い羊飼いの姿です。人はこの良い羊飼いの後をついて行くのです。

しかし現実の私たちは誰の声を聞いているでしょうか、どの声に耳を傾けているでしょうか。良い羊飼いの声を聞いているでしょうか。良い羊飼いの声ではなく、自分の心の声や欲求に耳を傾けてはいないでしょうか。あるいは、ちまたの声、噂や流行、間違った常識、強い意見に振り回されていないでしょうか。いろんな理由をつけて。ここに私たちの弱い姿があります。
良い羊飼いの声が聞こえない時もあります。悪い羊飼いの声に惑わされるときもあれば、自分の悩みや苦しみの中で羊飼いの声そのものが聞こえなくなってしまう時もあります。むしろそのような時のほうが多いかもしれません。しかしそんな時であっても、良い羊飼いは私の名を呼び続けています。残念ながらその声はあまり大きくはありません。聞く耳をもっていない時、周りの雑音が大きい時、私たちの心の耳がふさがってしまっている時には、私には聞こえないのです。そんな時はどうするでしょうか。幸いなことに私たちの周りには同じ羊の仲間がたくさんいます。この仲間の羊たちが正しい羊飼いの声を聞き分けます。この羊と群れをなし、一緒に聞いて行けば、従っていけばよいのです。そのために群がいるのです。これが教会です。教会という羊の群れは、それぞれが良い羊飼いの声を聞く努力をし、全体で聞いています。たとえ一人が聞き損ねても、聞こえなくなっても、一緒に歩むことによって、羊飼いの姿を見失うことはないのです。

神様の愛は終わりがありません。イエス様は最後に「わたしには、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない」と言われます。私たちは、囲いのどちら側にいるでしょうか。内側にいると確信できれば、それに越したことはありませんが、内にいると思っていてもいつの間にか外側にいたり、ずっと外側にいる人もいるかもしれません。しかし、外側にいるとしても、イエス様は「その羊もわたしの声を聞き分ける」と言ってくださいます。そしてついには「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」と約束してくださるのです。救いの完成の姿です。神様はどんな人であっても、やがて良い羊飼いの声を聞くようになり、羊飼いの囲い、つまり天国に入ることができるのです。私たちにはこの約束が与えられています。
私たちは良い羊飼いに導かれる群です。群れは群れとして互いに支えあいながら羊飼いの後をついて行くのです。そして、外にいる羊たちに、良い羊飼いの姿を伝えたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いを、キリスト・イエスにあって守るように。