み言葉の光に照らされて
ヨハネによる福音書 1: 1 – 9
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
突然ですが、イエス・キリストは神であり同時に人です。イエス様が神であり同時に人であるという事はキリスト論というキリスト教信仰の要です。それは人の合理的な理解ではすぐにわかることではありません。しかし私たちはいつの間にかイエス様の人としての人生と言葉に注目し続けているように思うのです。それはあながち間違いではないのですが、イエス様の神性、神としての姿に注目することも大切なことです。
今日の福音書は「ロゴス・キリスト論」と呼ばれ、独特の言い回しの難解な言葉です。ロゴスというのは言葉という意味です。「はじめに言葉があった」すべての初めにすでに神様がおられたことを言っています。そして福音書記者ヨハネは、キリストがその初めに、「言」としてすでにおられたと言います。父なる神が最初におられ、後から子なるキリストが生まれたり登場したりするのではなく、キリストは最初から神様と共におられ、神そのものであったと言います。
聖書はその言であるキリストは光であったと言います。この光は闇である人間の世界を照らす光でした。光は闇を貫きます、闇は光を勝つことはできないのです。しかし、世界はこの光を受け入れなかったのです。拒んでいるのです。私たちの世界もまさに闇です。オリンピックイヤーとしてはしゃぐ一方で、孤独と貧困があり、世界では殺戮と戦争が続き、災害と環境破壊が進んでいます。温かい年越しを過ごした私たちの知らないところでは、寒さに凍える人々がいて、仮設住宅で避難生活をされている人々がいるのです。新しい年を迎えた今も、闇は深まっているのです。
一方で、私たちは表面的には闇が嫌いです。クリスマスシーズンには街並みは競って電飾を飾りました。一見光を好んでいるかのようです。私たちは闇の前では不安と恐れを感じます。光を求め、街灯の少ないところでコンビニの明かりを見つけるとホッとするのです。しかしそうでありながら、神様が光としておいでになった時、人はそれを受け入れることが出来ません。私たちの心にある罪が真の光を拒むのです。東方の博士たちは星の輝きの中に新しい王の誕生を見出だし、長い旅を続けてそれを求めますが、ヘロデ大王を始めユダヤ人たちはそれを拒みます。彼らの罪が光を拒み、光の中に救い主を見ることが出来ないのです。博士たちが見出した光は、異邦人を照らす光となります。
神様はその闇の中に、罪に打ち勝つ光を与えられます。イエス様を送られるのです。闇のままでは人に救いがないからです。罪は光によって砕かれ、人は光に照らされ、光に導かれて初めて恐れと不安から解放され、平安を得、救いを得ることが出来るのです。イエス様という光は、十字架の死という仕方でそれを実現されます。それは人の目に愚かに映ります。十字架の死が救いであるはずはないと。人は罪の目でしか判断できないからです。しかし、罪びとであっても信仰の目が与えられます。その信仰の目によって、十字架の中に救いを見出すことが出来るのです。さらにその救いは、私という一人の信仰者にとどまらず、教会を通して世界のすべての人々のところに届けられるのです。
キリストご自身である光は、今、みことばとして私たちの前にあります。私たちはこの言葉に聞き、救われ、新たないのちが与えられ、世に遣わされるのです。今年一年もみ言葉の光に照らされ、導かれ、共に歩み、福音宣教に励んでいきたいと思います。