苦難の時、神様が働く時
ヨハネによる福音書 9: 1 – 41
私たちの間には良いことも悪いことも起こります。良いことにはその原因を追究することはしませんが、悪いこと不幸なことにはその理由を求めます。今でも「日ごろの行いが悪いと」などと言いますので、この考えは今でも生きています。罰が当たるという、いわゆる応報思想です。今日の福音書を見ると、それが私たちだけの考えや傾向ではないことがわかります。
今日の福音書の中には生まれつきの目の不自由な人の話が出てまいります。弟子たちはイエス様に「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも、両親ですか」と尋ねています。病気や障碍は罪に対する神様から与えられる罰であるという考えが浸透していたからでした。つまり、本人またはその両親や先祖の罪の結果、罰として病気や障碍が与えられたと考えるのです。「先祖のたたり」というのもそのたぐいだと思います。これには何の証拠もないのですが、そう信じて人びとは納得したのです。もちろんそれはまわりに納得は与えても、本人や親しい身内に対しては慰めのかけらもありませんでした。
病気や障碍を持った方はそれだけでも不幸です。様々な不自由さや苦しみが与えられるのです。それらに対して他からの一時的な、表面的な同情や慰めはあるかもしれません。しかし本当の意味でその方の苦しみを取り去ることはできません。不幸にはマイナスしか与えられないのです。そこには救いがないと言ってよいかもしれません。ところがイエス様のお考えは違いました。本人や両親が罪を犯したからではなく、神の業がこの人に現れるからである」と言われるのです。
私は若いころ、耳の不自由な方々、車いすの方々など障碍を持った方々と接する機会が多くありました。障碍を持った方々と接する中で、皆さんこの聖句を喜びとして受け取られていたのです。正直言うと、私はそれがよくわかりませんでした。障害が与えられた方々に「神様の業が現れる」というのは、気休めのようにしか思えなかったのです。直接に読めば、この後イエス様は目の見えない方を見えるように奇跡をおこなわれるのですから、確かに神の業を行われるのです。しかし直接の当事者でない今の障害を持った方、病気の方、不幸が続いている方にイエス様の奇跡が起こるわけではないのです、私はとても不思議に思っていたのです。
しかし、ある時気が付きました。障害を持った方、病気の方、不幸な出来事に見舞われている方には、周りからマイナスの目線しかないのです。確かに慰めや同情や哀れみはあったかもしれません。しかしその方を本当に力づける言葉にはならなかったのです。しかしイエス様は、その苦しみの時、苦しみの場所、苦しんでいる人を神様の働きの時と場所とされるのです。それはその人に対する初めて肯定的なまなざしであり、言葉なのです。確かにそのような障碍や病気、不幸はすぐには解決しないかもしれません。しかしたとえそうであっても、その人に神様が働いてくださっている、その人が神様の働きの場所として用いられている、これはどれほど大きな慰めなのでしょうか。障碍や病気の時だけではありません。私が神様の働きの場所、道具として用いられていると信じることこれほどの慰め、励まし、喜びはないのではないでしょうか。日ごろか私たちは自信満々で生活しているわけではありません。不安があったり、コンプレックスがあったり、自信がなくどちらかというと自己否定をするようなことが多いように思いますし、それによって苦しめられています。しかし神様はあなたはそれでいいんだよ、そんなあなたが神様の働く場所として必要なんだよと言ってくださるのです。
今日の福音書のもう一つのポイントは、目の見えない人が見えるようになっても、誰も喜んでいないということです。
目が見えるようになった人をみんな疑いの目で見ています。どうして見えるようになったのか、誰がそんな業を行ったのか。それも何もしてはいけない安息日にそんなことをしたのか。疑いが止まりません。それどころか本人にだけではなく、両親を呼びつけて詰問しています。喜ぶどころか疑いと非難をあびせているのです。
その中でも30節以下の目に見えるようになった人の言葉は重要です。彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」旧約の預言書を見ると、メシア、救い主が到来する時、目の見えない人が見えるようになり、口のきけない人が話せるようになると書かれています。つまり、律法学者もファリサイ派の人も、彼に起こったことが預言の成就だとわかったはずです。ところがそれを受け入れようとしない。神様の御業を喜びとして受け取るのではなく、疑いと不信の目を向けているのです。
私たちにも不思議な出来事が起こります。大きなこともあれば些細なこともあります。そして一喜一憂します。しかしそれらの出来事を私に起こった小さな奇跡として神様の働きとして受け取ることができるならば、私たちは毎日を喜びと感謝をもって送ることができるのではないでしょうか。
