与えられる命の水
ヨハネによる福音書 4: 5 – 42
再び中東で戦争がはじまりました。以前から緊張関係にあったアメリカとイスラエルが突然イランを爆撃したのです。当然報復が始まります。そして周辺諸国にも戦火が広がっています。これ以上拡大しないことを祈るばかりです。
戦争によって人が傷つき、命が奪われます。特に小学校にもミサイルが撃ち込まれ、120人以上の子どもたちの命が奪われたと聞きます。心が痛みます。このような犯罪はどのような理由があっても許されるものではありません。戦争では当然街は破壊され、すべての生活が困難になります。中でも人の命の基本であるライフラインが奪われます。ライフラインの中でも水は人にとって生命線です。私たちの生活の中では地震などが起こらないかぎり、水道をひねれば水が手に入りますが、乾燥した国ではそうではありません。水は大変貴重です。命と結びついたものだと言っていいと思います。この度の戦争は中東です。日本のように水の自然の恵みが乏しいところです。本当に人々の生活と命が心配です。
今日の福音書はその乾燥した国、パレスチナのサマリア地方での話です。乾燥した台地の広がるパレスチナでは、水は私達が想像する以上に大切なものです。私がイスラエルを旅行した時にも、ガイドが必ずペットボトルの水を用意してくれましたし、汗っかきの私が気温40度になるほどの暑さでも汗をかきませんでした。それほど乾燥しているのです。
イエス様がサマリア地方を旅しておられました。ちょうどお昼頃、疲れて井戸のそばで休んでおられました。そこに一人の女の人が来たので、水をくれるように頼まれました。その井戸は「ヤコブの井戸」と呼ばれ、その町の人のもので、町の者でない人が勝手に井戸の水を汲んではいけなかったからです。この女はビックリします。この驚きにはいくつもの理由がありました。その一つには歴史的にユダヤ人とサマリア人は仲が良くなかったことが挙げられます。ユダヤとサマリアは紀元前922年に北イスラエルと南ユダとに分かれるまでもともとは一つの国でした。その後、722年にサマリアはアッシリアによって征服され、多くの指導的な民が捕囚となり、その代わりにたくさんの外国人が入ってきます。そこでは当然混血が起こります。それ以降、純潔を重んじるユダヤ人にとってサマリアは軽蔑の対象となるのです。さらに、イエス様の時代は男女の交流も厳しく制限されていましたから、男性が女性に、それがたとえ水を求めることであっても気軽に声をかけることは意外なことであったのです。そのような背景もあり、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と女が言ったことも無理もないことでした。これに対してイエス様は変なことをおっしゃいました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は訳がわからないまま、イエス様に「あなたは水を汲む道具もお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその水をお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」と答えました。するとイエス様はさらに言われます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」この言葉に女の人は驚きました。そんな水があるのならぜひ欲しいと思ったのです。ただでも井戸の水を汲むためには深い大きな穴を下りて行って、またその水をもって登ってこなければなりません。従って水汲みは、普通は炎天下の昼間を避けて早朝か夕暮れにする仕事だったのです。さらにこの女は何度も結婚と離婚を繰り返し、今もまた男性と暮らしていました。当時は、そのような関係には不寛容な時代です。そのような男性遍歴のある女は、女たちのたまり場である井戸端に来られるはずがありません。それで炎天下の人のいない昼に水汲みに来ていたのです。
ところがイエス様が言われたことは、ただの水汲みのことではありませんでした。イエス様が言われたことは「生きた水」のことです。心の傷をいやし、渇きを潤し、死んだような心に命を与える命の水のことでした。イエス様がこの女の中に見られた傷と心の渇きとは、どんなことでしょうか。この女にはかつて五人の夫が、今一緒に住んでいる男も夫ではないとイエスさまは言い当てておられます。このような女と付き合う女性は誰もいません。彼女は孤独さゆえに男を求め、それゆえに孤独であったのです。この孤独感、自分ではどうしようもない人生を、彼女の存在そのものの渇きをイエス様は「渇いている」と言われたのです。この女の後ろめたい人生、どうしようもないやるせなさ、さびしさ、孤独感をイエス様はしっかりと受け止めておられました。そしてイエス様は愛によってこの人の渇きを癒されるのです。
人はいろいろなものでこの心の渇きを感じています。満たされない、やるせない思い、無味乾燥な毎日、心細さや孤独感、不安感など。それは人によって違うでしょう。しかし、一生懸命、誤魔化そう紛らわそうとしています。ローマの信徒への手紙8章26節でパウロは「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」と言っています。ここで言われている霊をキリストと読み替えても何の差しさわりもありません。「キリスト自らが言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださる」のです。のどの渇きも、その水が五臓六腑にしみ渡らなければ、渇きは癒えません。人の深い渇きは、一時しのぎでは癒されません。深い渇きを癒してくれるのは、イエス様の愛だけです。イエス様もまた、本当の辛さ、寂しさを知っておられ、人の寂しさの中に入ってくださるのです。イエス様の十字架によって示された真実の愛こそが悲しみ、苦悩、孤独を埋め、癒すことが出来るのです。
サマリアの女は「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られる時、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」と言います。これに対してイエス様は「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」とはっきりと宣言されました。彼女の渇きの癒すのはメシアの救いです。
私たち現代人が持つ渇きは、神様が与えてくださる真の命の水なしには癒えることがありません。キリストという真の水をいただき、それを互いに分かち合うまで、私たちの命の根源的な渇きは癒されないのです。しかしその命の水は私たちに与えられています。私たちは今、世界的な不安と恐れの中にあります。日常が遮断されるという事態は私達を不安と恐怖感に陥れ、一方では苛立ちとなって人々の心がすさんでいます。今の私たちの渇きの状態です。こんな時だからこそ、愛と慈しみによって私たちを潤してくださる主イエスに信頼すべき時であり、信仰を確認する時でもあります。このようなかつてないような経験の中で私たちは祈り合い支え合いたいと思うのです。
