2026年2月22日 説教 鈴木連三氏 (信徒)

みことばで勝つ

マタイによる福音書 4: 1 – 11

祈り・節制・愛のわざ

四旬節(レント)、イースターを迎えるため・キリストの受難を覚えるための季節が始まりました。四旬節は『回心』そして『祈り』『断食(=節制)』『施し(愛のわざ)』が伝統的に大切なものとされています。私たちはイエス・キリストを覚える祈りによって神様の方に改めて心を向けます。節制によって十字架の苦しさを思い、様々なものを遮断し、神様にのみ集中します。そうして心の中に生まれる愛によってイエス様がなさったようにとなり人仕える。
このような過ごし方が四旬節の 40 日間には求められています。
この 40 という数字は聖書の世界では特別な意味を持ちます。今日の福音書の箇所でイエス様が断食をされたのは 40 日間でした。旧約聖書でノアが家族や動物たちと方舟に乗り込んだとき、雨は 40 日間降り続け、彼らはそれを耐え続けました。モーセによってエジプトから連れ出されたイスラエルの民は、神様が約束された地にたどり着くまで 40 年間荒れ野を旅しました。王妃イゼベルに命を狙われたエリヤはホレブ山で神に出会うまで 40 日間逃亡を続けました。40 という期間は、苦難に耐え、神様に試される期間です。これらの出来事も覚えつつ、今日の日課を考えてみましょう。

悪魔について

イエス様は 40 日間の断食後、神様によって悪魔からの罪への誘惑を受けられました。第一の日課ではアダムとイブが蛇にそそのかされ、まんまと『知恵の実』を食べてしまいます。ここでは悪魔は蛇として書かれています。悪魔は神様のような力を持っている神様と対抗できる特別な力を持った存在ではありません。悪魔とは私たちの心の中にある自分だけで全てのことができると思う心、神様から離れても問題ないと思う心、言い換えれば私たちの心の弱い部分です。聖書では、それが人格化され、あるときは悪魔として、ある時は蛇として書かれているのです。

三つの誘惑

40 日間の断食によって『空腹を覚えられた』イエス様を悪魔は石ころをパンに変えて食べて空腹をいやすよう誘います。イエス様は申命記 8 章の言葉『人はパンだけで生きるものではない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と悪魔に答えます。イエス様はパンを石に変えることは神の子の力を自分のために使うことだと考え、力の乱用と断じます。また、パンを神様よりも大切にする生き方を否定しました。
次に、悪魔はイエス様に『神の子なら、飛び降りたらどうだ。天使たちは手であなたを支えるだろう』“神様を試す”ようにそそのかします。試すというのは疑うことです。神様に全面的に信頼を寄せているのならば試す必要がない・確かめるなどあり得ません。神様を信じ、全てをゆだねているイエス様は『あなたの神である主を試してはならない』という聖書のことばで答えました。こうしてイエス様を神様のご意志から切り離そうとした悪魔の第二の誘惑は失敗します。
悪魔による第三の誘惑。悪魔はイエス様を高い山の上に連れていき、眼下に広がる国々を見せ、誘います。神様を拝む代わりに自分を拝むことでこの世界を手に入れてはどうか?この世の権威と栄誉を得るために悪魔を拝む。拝むことは一回だけだとしても、神様よりもこの世の力を選ばせようとしました。
『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』これまでと同様に申命記の言葉で悪魔を
追い払います。ご自身を試みられた神様に全てを委ねるというイエス様の宣言です。

悪魔について-2

さて、悪魔が私たちの心の中にある神様から離れようという人間の心の弱さを指しているとするなら、つじつまが合わないことが起きてしまいます。イエス様が悪魔から誘惑を受けたということはイエス様の心にも神様から離れようという気持ちがあることになるからです。
これは『主の洗礼』と同じです。罪なき神様のひとり子がバプテスマのヨハネから罪のゆるしのための洗礼を受けました。この矛盾は洗礼を授けたヨハネも指摘します。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに。』イエス様は罪のないお方ですから本来は洗礼を受ける必要はありません。しかし人間となって私たちと連帯するため、人間と同じように洗礼を受けました。悪魔の誘惑も同じこと、イエス様は本来ならば罪に陥ることはあり得ません。しかし、私たち人間に罪の誘惑に打ち勝つ方法を示すために誘惑を受けられました。そのために神様がイエス様を試されたのです。

祈り・節制・愛のわざ-2

イエス様が示された罪の誘惑に打ち勝つ手段、それはみことばです。イエス様は神の子の力を使って誘惑に簡単に勝つこともできたでしょう。しかしイエス様が示されたのは『みことばで勝つ』ことでした。イエス様が特別な力ではない・人間でも使える方法で勝ったのです。これは罪に打ち勝つ力が私たち人間にも与えられたということになります。
旧約聖書の時代の神様は、この世・私たち人間の世界に力を持ってしばしば直接介入していたことが聖書には書かれています。国王が道を外した時には戦争が起き大国によって国が攻め込まれたり、民衆が神様を忘れた時に大きな災害が起きたり、ある人が神様に背いたときに本人や子孫が病気や障害を負うことになったり。しかし、イエス・キリストをこの世に送られてからは、神様はそのスタンスを改めています。人間社会への目に見える形の介入はなくなりました。
戦争は神様の怒りのメッセージではありません。人間のただの愚かな行為です。時に理不尽にも見える病気や災害などの困難は、罪に対する罰ではなく、神様の栄光を示すためのものです。神様はこのような困難を互いに愛し合って、仕え合って乗り越えることを望んでおられるのです。天の国は神様ご自身によって作られるものではありません。天の国は私たち人間が神様から愛を受け、互いに愛し合うことによって完成するのです。これは私たちだけの力ではできません。でもみことばの力が私たちを助けてくれます。私たちがイエス・キリストを覚えて祈り、神様に集中する時、イエス様がなさったような愛の心が私たちの中に生まれ・あふれます。その愛でこの世界が満たされるところ、そこが天の国なのです。