2026年2月1日 説教 宮川幸祐氏 (信徒)

弱るあなたに祝福が

マタイによる福音書 5: 1 – 12

私たちには、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと 4 つの福音書が与えられています。しかし、正直なことを言うと私は最初、マタイ福音書に苦手意識がありました。あれをせよこれをせよと言われ、福音というよりは律法を聞いているような気分になったのです。しかしその思いは、聖書について詳しく学ぶ中で大きな変化を迎えました。マタイ福音書は、確かに「教え」が強調された福音書です。しかしそれは、「教えを守りなさい、それが出来なければ救われません」というような、排除の言葉ではないのです。そうではなくて「神様との関係の中で、あなたがたはこのように生きるようになる」と、救いの道のりを指し示すものなのです。マタイ福音書は、たしかに堅苦しいところはあるのですが、当時のユダヤ人キリスト者に向けて、律法に馴染み、神様との正しい関係のあり方を意識する人々に向けて、イエス・キリストの福音を、救いの約束を、力強く語っているのです。
そして、その中で今日の箇所、今日の福音書、5 章の 1 節-12 節は、特別な意味を持っています。マタイ福音書は、イエス様の教えを大きく 5 つの説教集としてまとめているのですが、その中でも最初のものが、5-7 章の「山上の説教」です。そして、今日の箇所はその「山上の説教」の冒頭にあたります。つまり、「幸いである」というこの教えは、マタイ福音書において、一番最初に語られる教えです。違う言い方をするならば、全ての教えに先立って、この「幸いである」という言葉が、語られている。「教え」を重視するマタイ福音書にとって、「幸いである」というこの言葉は特別なものであるのです。

それでは、そこでは一体どのようなことが語られているでしょうか。そこで語られるのは、弱りきった、小さくなってしまった、そんな人々にしかし天の御国が、神様の恵みが与えられる、そんな励ましの言葉です。
3 節「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」この「心の貧しい」という言葉は、「心に貧しさを抱える者」といった意味です。豊かな気持ちになれない人々に向けて、けれど、「天の国はその人たちのものである」と語られる。4 節では、悲しむ人々に向けて、そこで慰められる、という喜びの未来が語られる。5 節「柔和な人々」という言葉は、穏やかで性格が良い、ということではなく、「へりくだる、耐え忍ぶ」、言い換えるなら強くあることが出来ない姿を描きます。しかし、そうした者が「地を受け継ぐ」。これもまた、天の御国に招き入れられることを指しています。6 節、「義に飢え渇く人々」、苦難の中におかれ、心がゆらぎ、神の義を探し求める人、そんな人々は、しかし、満たされる、という。
この、3 節から 6 節までは、いずれも苦しむ者に向けて、「幸いである」と語られ、天の御国という未来が語られるという共通点を持っています。普通に聞くならば、全く不思議な言葉です。「幸いである」というのは本来、豊かな気持ちでいるものに、喜んでいる者に、力強くある者に、自信を持っている者に向けて語られる言葉だからです。しかしここではその反対、心に貧しさを抱える者、悲しむ者、へりくだる者、心揺らぐ者に向けて、「幸いである」、天の御国が、恵みが与えられる、と語られている。では、なぜそんな大逆転が起きるのか。注目すべきは、ここに理屈が、方法が全く語られていない、ということです。苦しむものよ、こうしなさい、そうすれば幸せになる、といわれているのではないのです。苦しむものよ、あなたは幸いだ、こう、言われている。これは、神様の、イエス様の、宣言であるのです。イエス・キリストの訪れによって、もはや苦しむものは苦しむ必要がなくなった。苦難の只中にあっても、救いを疑う必要はなくなった。助けを求める者に、祝福が約束された。だからこそ「あなたがたは幸いだ」と語られるのです。
そして、その恵みの中で、「憐れみ深くあるように」「心清くあるように」「平和を実現する者であるように」、そのように、新たな生き方が与えられている。これも、条件ではありません。「憐れみ深くあれば救われます」ではないのです。あなたには救いが約束されている、神様の愛がたしかに注がれている、だから、安心して、憐れみ深くありなさい。心清くありなさい。平和を実現するものとなりなさい。そのような、励ましの言葉、導きの言葉として、与えられています。
10 節、義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである、これは、これまでの締めくくりの言葉になります。逆境の只中にある者に向けて、しかし、天の国が約束されている。たとえ周りの人々に理解されずとも、それどころか間違っていると攻撃を受けていたとしても、戸惑わなくて良い、諦めなくて良い、救いは確かにあなたに与えられるのだから、そのように、語られている。
このような、「幸いである」という言葉を、マタイ福音書は全ての教えに先立って配置しました。それは、数多ある教えは、この「幸いである」という言葉を踏まえた上で、理解されるべきだからです。イエス様は不安の中に生きる人々に向けて、幸いを宣言されました。天の御国に至る、救いの約束を、与えてくださった。そして、神様との関係が回復された者に向けて、新しい生き方を指し示してくださった。それは、「幸いである」という今日のみ言葉がそうであり、そして、全ての教えがそうである、そのようにマタイ福音書は指し示しているのです。

福音書、それはイエス・キリストの救いを告げるものです。一つの軸は、誕生、洗礼、そして福音宣教の旅から、十字架の出来事といった、イエス・キリストの出来事です。それは、私たちの元にイエス・キリストが来てくださったこと、私たちの救いの為に十字架にかかってくださったこと、救いの初穂として復活されたことを示します。そして、もう一つ、教え、という軸がある。イエス・キリストによる救いは、全ての人に約束されている。小さい者も、弱い者も、苦しむ者も悩める者も、天の御国に招き入れられる、幸いである、そう宣言する声です。そしてまたその声は、救いに預かる私たちが、神様とどのように向き合い、どのように生きるかを、指し示します。救われた私たちは、平和を作る者となる。私たちもまた、救いの出来事の一部として、働く者となる。「幸いである」の言葉は、そしてまた全ての出来事と教えは、私たちの救いを、救いに生きる私たちの姿を、描き出しています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、4 つの福音書は、それぞれが少しずつ立ち位置を変えながら、それぞれの形で、しかし一つの福音を、イエス・キリストによる私たちの救いを、指し示します。そして、今年一年は、その中でも特に、マタイ福音書を通して、わたしたちは福音を受け取ってゆきます。福音書の告げる一つ一つの出来事を通して、そして、一つ一つの教えを通して、主の恵みを、救いの約束を、私たちの新しい生き方を、豊かに受け取ってゆきましょう。