神様との関係性の中に生きる
マタイによる福音書 4: 12 – 23
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」――ガリラヤで伝道を始めたイエス様がこのように言われたことをマタイ福音書は伝えます。洗礼者ヨハネも荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と言ったと書かれています。
なぜ「悔い改め」が必要なのか、それは天の国が近づいたからです。「天の国」は「神の国」を言い換えた言葉で、神様による支配を表します。イエス様は、神様による支配が近づいているので、神様に立ち返り、神様の方に心を向けて生きるようにと、人々に宣べ伝えられたということです。
イエス様が伝道を始められたガリラヤは、異邦人のガリラヤと言われているように、旧約聖書の時代から異邦人に支配されてきた土地でした。イエス様の時代には民族的にも宗教的にも入り混じった状態で、ユダヤ人たちからは軽蔑されていました。また、当時のユダヤ人社会で政治と宗教の中心地であったエルサレムから見れば、ガリラヤは北の辺境の地でもありました。ガリラヤという地名も「周辺」という意味の言葉が由来だそうです。
マタイ福音書は、イエス様が働きを始める場所としてガリラヤを選ばれたことを、預言者イザヤの預言が実現するためだと説明しています。暗闇に住む民、死の影の地に住む者に与えられた光がイエス様だというのです。マタイが引用したイザヤ書 8 章から 9 章の少し前には「見よ、おとめが身ごもって、男の子を生み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」という箇所があります。また直後には「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」という箇所もあります。
イエス様こそがインマヌエル、すなわち「神は我々と共におられる」と呼ばれる方、ユダヤ人たちが旧約聖書の時代からずっと待ち望んでいた救い主であり、そのイエス様がこの世で活動を始められたことが「天の国が近づいた」ことの実態だとマタイは意味づけます。天の国の到来は、私たちが悔い改めた結果実現したことでも、悔い改める人が大勢いる場所で実現したことでもなく、異邦人のガリラヤと呼ばれ救いから遠いと考えられていた場所で、私たちが悔い改めるより先に神様の計画によって進められたことです。人々と共におられる神であるイエス様が私たちの間に来られ、私たちを招いておられるから、私たちは神様の方に向くようにと言われているのです。
伝道を始められたイエス様が最初にされたのは、4 人の漁師を弟子にすることでした。そのいきさつは非常にシンプルです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたシモンとアンデレ、イエス様に呼ばれたヤコブとヨハネがすぐにイエス様に従ったというものです。
なぜ漁師たちはすぐにイエス様に従う決断ができたのか、ペトロやアンデレ、ヤコブとヨハネはイエス様と面識があったのかという疑問が生じます。マタイ福音書には説明がありませんが、ルカ福音書やヨハネ福音書が記しているような経緯があって彼らはイエス様に従う決断をしたのかもしれません。決断までに何日、何週間の時間が経過していたのかもしれません。そのような背景はお構いなしに、ここでマタイが重視するのは、先にイエス様からの声かけがあったこと、それを受けて 4 人の漁師たちがイエス様に従う道を選択したという事実だけです。
ローマ帝国の支配下にあったガリラヤの漁師たちは、一定量の魚を納めることを条件にローマ帝国から漁業権を得て漁をしていたと考えられるそうです。漁師としての生き方は、ローマ帝国の利益に加担することであり、ローマ帝国のために働いているという言い方もできます。イエス様がペトロとアンデレに言った「人間をとる漁師」とは、この世の政治権力のために生きる生き方ではなく、人々を生かす生き方をするものということです。彼らは、イエス様の言葉を聞いて、神様の方に方向転換し、イエス様と共に歩む道を選んだのです。
では、私たちがイエス様に従おうとするとき、私たちは自分の仕事や家族を捨ててイエス様について行く必要があるのでしょうか?自分の仕事や家族を捨てることができなければ、私たちはイエス様と共に歩むことができないのでしょうか?必ずしもそうとは限らないと思います。
ドイツ語で職業を意味する Beruf(ベルーフ)という単語がありますが、もとの意味は「呼ぶこと」です。マルティン・ルターは、人はそれぞれ神様から召された働きがあると言い、職業(ベルーフ)を神様から与えられた使命と解釈しました。そして、聖職者だけでなく、この世的にはつまらない仕事も、家事や育児のような日々の営みも神様からの使命であると考えました。弟子たちがイエス様に従う決断をする前に、イエス様が弟子たちを選んで声をかけ呼ばれたように、私たち一人ひとりも神様によってそれぞれの立場に召し出されているのです。イエス様に従うこと、そしてイエス様が求められる「悔い改め」とは、それぞれの立場にあって、物理的な財産や政治権力、人間中心の価値観に支配された生き方を捨て、神様の呼びかけによって人を生かす生き方へ方向転換することではないでしょうか?
ペトロが本当の意味で「人間をとる漁師」になるには、多くの失敗や挫折、イエス様の忍耐と愛が必要でした。イエス様と時間を共にすることでペトロは学び、イエス様がこの世を離れられた後、聖霊を受けて「人間をとる漁師」へと変えられました。
私たちがこの世で生きている限り、この世の価値観に左右されることは避けられません。悔い改めよ、というイエス様の言葉を耳にしても、神様の期待に応えられない歩みをしていることが多いのが私たちの現実です。それでも私たちと共にいて、私たちが迷うことのないよう私たちの前を進んでくださるイエス様に目を向け、歩いていきたいと思うのです。マタイ 5:14 でイエス様は「あなたがたは世の光である」と言われました。「あなたがた」とは、イエス様に従う者たちのことです。暗闇に光として来られたイエス様の光は、私たちにも引き継がれています。神様の支配の下で生きることができる幸いに感謝しつつ、自分たちの光を輝かせることを願う日々でありたいと思います。
