来なさい、そうすれば分かる
ヨハネによる福音書 1: 29 – 42
本日の聖書箇所は、洗礼者ヨハネのもとにイエス様がやってきた場面から始まっています。先週読まれたマタイによる福音書でも同じような出来事が語られていました。しかし今回のヨハネによる福音書では、その後ヨハネの二人の弟子たちがイエス様に従ったということが記されています。なぜヨハネの弟子であった二人はイエス様に従っていったのでしょうか。今回はなぜ彼らはイエス様に従っていったのかということについて、考えてみたいと思います。
この二人の弟子たちの内の一人は、シモン・ペトロの兄弟、アンデレだったようです。なぜヨハネの弟子であったアンデレたちはイエス様に従っていったのでしょうか。アンデレたちがイエス様に従っていったきっかけ。それはヨハネが言った、「見よ、神の子羊だ」という言葉です。この言葉は、今日の聖書箇所の冒頭にも出てきています。29 節には、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」とヨハネが語っています。この言葉は、イエス様がどのような方であられるのかを証しています。イエス様は犠牲の子羊として、この世に来られたのです。イスラエルにおいて、子羊は特別な意味を持っていました。イスラエルの人々がエジプトの奴隷として苦しんでいた時代に、神様は10の災いをエジプトに下されました。その最後の災いが、すべての初子を打たれるというものでした。しかし神様はイスラエルの人々に対して、子羊の血を家の門と鴨居に塗れば、その家を神様は過ぎ越し、災いは下されないと言われました。こうして子羊の犠牲によって、彼らに奴隷からの解放という道が開かれていったのでした。この出来事を祝うのが過越祭です。イスラエルの人々にとって子羊は、神様による救済という特別な意味を持っていました。
しかしヨハネが語る神の子羊という言葉には、それ以上の意味が込められていました。
イエス様が神の子羊であるという時、それは私たちの罪の身代わり、つまり十字架を意味します。私たちは罪に捕らわれています。罪というのは、私たち人間と神様の関係が壊れているということです。私たちはいつも神様から目を背けて、自分を中心として、自分のことばかり考えてしまいます。しかし神様はそんな私たちのためにイエス・キリストを世に遣わし、十字架にかけられました。イエス・キリストという神の子羊の犠牲によって、私たちの罪が赦されたのです。「世の罪を取り除く神の子羊」という言葉には、そのような意味が込められていました。
しかしこのことはイエス様が十字架にかけられ、復活されたときに初めて明らかにされました。この時、つまり洗礼者ヨハネがイエス様を指して「見よ、神の子羊だ」と語ったタイミングでは、この言葉が持つ意味を二人の弟子たちは理解することができなかったはずです。いわばこの言葉は預言であり、まだ明らかにされていない、先のことを指し示すものでした。しかしアンデレたちはイエス様に従っていこうとします。なぜヨハネの言葉を聞いて、二人は従っていこうとしたのでしょうか。それは、イエス様が自分たちにとって決定的な影響をもつ方であると感じたからではないでしょうか。言葉の意味は分からずとも、自分たちにとって無視できない存在であると感じたのです。この場面には、私たちの信仰の始まりがどのようなものであるかが描かれています。私たちは人生の中で、イエス様に出会います。そしてその出会いは多くの場合、人の言葉を通して与えられるのです。イエス様がどのような方であるかを、他者の証しを通して聞くのです。その言葉は、何の意味も持たないものとして通り過ぎていってしまうこともあります。しかし時に、その言葉がその人の人生に決定的な影響をもたらす瞬間があるのです。意味は理解できないが、なぜか心に引っかかる。この方は、自分の人生にとって重要な存在なのではないか。そう感じられる瞬間があるのです。私たちもまた、イエス様が自分にとって決定的な影響を与える方であると感じる瞬間に出会い、教会に通うようになったのではないでしょうか。それはつまり、私たち人間の言葉を用いて、聖霊が働くということです。私たちがイエス様について話したり、証しをしたりすることによって人が信仰に至るのではありません。私たちの言葉は弱く、不完全なものでしかありません。しかし神様はそんなつたない私たちの言葉を用いて、人々を信仰へと招かれるのです。聖霊なる神様が働いてくださることにより、私たちの言葉がイエス様からの招きの言葉として用いられていくのです。
ここでまた、聖書の物語に戻りたいと思います。二人の弟子たちがイエスに従っていこうとすると、イエス様は振り返って彼らに問いかけます。「何を求めているのか。」これに対して弟子たちはこう答えます。「どこに泊まっておられるのですか。」これは、会話としていびつな形になっています。イエス様の質問に対して、弟子たちの応答がかみ合っていません。なぜ弟子たちはこのような応え方をしたのでしょうか。
「どこに泊まっておられるのですか。」この言葉には、弟子たちの言葉にならない思いが込められていたのではないでしょうか。弟子たちが答えられなかった理由。それは、自分が何を求めているのか、自分たちもまだ理解することができていなかったからなのではないかと思います。「神の子羊」であると聞いた彼らは、イエス様に従っていこうとしました。しかし彼らはその言葉が持つ意味を、まだ理解できていませんでした。よって自分たちがイエス様に何を求めているのかについても、言葉にできるほどはっきりと理解することはできていなかったのではないでしょうか。もともと人々に悔い改めを求めていた洗礼者ヨハネに従っていた彼らです。イエス様に対して、義しい方についていきたいという思いがあったから従っていったのかもしれません。しかし出てきた言葉は、「どこに泊まっておられるのですか。」でした。なぜこの言葉が出てきたのか。「どこに泊まっておられるのですか。」これは相手の住んでいる場所を尋ねる言葉です。つまりこの言葉は、彼らのイエス様が住んでおられる場所を知って、自分たちもイエス様と共にいたいという、自分でも気づいていない思いが込められていたのではないでしょうか。イエス様と共にいたいという思いが、イエス様の住んでいる場所を尋ねる言葉として彼らの口から出てきたということです。イエス様と共にいたい。これが彼ら自身も気づいていなかった、彼らの本当の望みだったのではないでしょうか。そしてこのことは、私たちにも当てはまります。私たちも教会に通おうとする際、自分が何を求めているのかをはっきりと言葉にすることはできないのではないでしょうか。アンデレたちのように義しい生き方について学びたいという思い、あるいは自分で抱えきることのできない大きな悲しみに対する癒しなど、教会に通い始める理由には様々なものがあると思います。しかしその奥底には、イエス様と共にいたいという思いが共通して存在しているのではないでしょうか。アンデレたちの「どこに泊まっておられるのですか。」という言葉のうちで「泊まって」の箇所で用いられている言葉には、「とどまる」や「離れずに一緒にいる」といった意味も含まれています。教会に通おうとする際に私たちは、イエス様のもとに、イエス様と一緒に、イエス様と共にいたいという自分でも気づいていない、言葉にならない思いを持っているのではないでしょうか。 そんな私たちにイエス様は語り掛けます。「来なさい、そうすれば分かる。」この言葉には、二重の意味が込められているのではないかと思います。一つ目はイエス様の言葉、あるいはイエス様がどのような方であるかを理解することによって、信仰が生まれるのではないということです。通常私たちは、相手を理解してから信じるという行為に移行します。相手を理解しないまま、信じる行為は時には妄信とも呼ばれ、危険な行為とされています。そのためまずは相手を信じることができる根拠を見出すために理解しようとするのです。しかしアンデレたちと同じように、私たちはイエス様がどのような方であるかを理解することはできません。イエス様がどのような方であるかは、イエス様のもとに行って初めて分かるのです。イエス様のもとにとどまり、つながり、関係を持って生きていく中で、初めて分かっていくものなのです。イエス様が私たちを愛し、ご自身を犠牲にしてまで、私たちと共にいてくださろうとする方であることを知っていくのです。理解から信仰が生まれるのではなく、信仰から理解が生まれていくのです。そしてもう一つの意味が、イエス様のもとにとどまることによって、初めて自分の本当の気持ちが理解できるのではないかということです。イエス様に従っていきたい理由。それは始めのうちは、アンデレたちがイエス様の問いかけに答えることができなかったように、自分でも理解することができないものであるかもしれません。なぜイエス様に従っていきたいのか。それを私たちはうまく言葉にすることができません。しかしイエス様はそんな私たちを招き、私たちの本当の思いに気づかせてくださるのです。神様とのつながりを持って生きていきたいという私たちの隠された、言葉にならない思いに気づかせてくださるのです。
最後に、今日の聖書箇所はアンデレから兄弟のシモンへと信仰が広がっていく様子が描かれています。まだこのタイミングでは、シモンがイエス様を信じたとは明言されていません。しかし、後にシモンはイエス様の弟子の筆頭として歩んでいくことになっていきます。ヨハネの言葉から、アンデレたち、そしてシモンへと信仰が広がっていくのです。アンデレがシモンにイエス様をメシア、つまり救い主であると証したように、イエス様のことを語り伝える人間の言葉を通して、イエス様を信じる人々の共同体は広がっていきました。そしてその最先端に、私たちがいます。私たちの言葉もまた、神様によって用いられていくのです。私たちの思いに気づき、私たちと共にいて、私たちのもとにとどまってくださる方と共に生きる。この喜びに満たされて生きていく中で私たちが語る言葉もまた、つたない言葉であるにもかかわらず、神様によって用いられることにより、イエス様を指し示す招きの言葉へと変えられていくのです。
