あなたですか
マタイによる福音書 11: 2 – 11
本日の聖書箇所では、牢に捕らえられた洗礼者ヨハネが描かれています。先週では荒れ野にて民衆に向かって語っていたヨハネですが、その後彼は領主ヘロデによって捕らえられてしまいました。ヘロデが自分の兄弟であるフィリポの妻、へロディアと結婚したことをヨハネは批判したのです。このことでヨハネはへロディアに恨まれ、捕らわれの身となっていました。
そんなヨハネは自分の弟子たちを遣わして、イエス様に尋ねさせます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」これはよくよく考えてみると、おかしな話です。先週の聖書箇所でヨハネは、「自分の後からわたしよりも優れた方が来られるのだ」と語っていました。先週の箇所ではそこまで触れられていませんでしたが、ヨハネはその後洗礼を受けるために来られたイエス様と出会いました。その時ヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところへ来られたのですか。」と言って、イエス様が洗礼を受けるのを思いとどまらせようとさえしていたのです。そんなヨハネが、イエス様に対して「来るべき方はあなたでしょうか」と聞いています。これはいったいどういうことでしょうか。
なぜヨハネがイエス様に「あなたでしょうか」と聞いたのでしょうか。その要因のひとつは、ヨハネが置かれている状況の変化なのではないかと思います。ヨハネは牢の中にいました。これまでいた荒れ野と同じように、外の状況を自分の目で見ることはできません。空間的な問題だけではありません。牢に捕らえられているヨハネは、いつ自分が処刑されるかわからないような状況に置かれていました。他人に自分の命を握られ、いつ自分の人生が終わるかわからない状況に置かれていたヨハネは、不安や恐れ、焦りといった様々な感情を抱えていたのではないかと思います。そして何より、ヨハネはこうした自身の置かれた状況からは、全く神の国の到来を感じることができなかったということです。ヨハネは後から来られる方であるイエス様に、すでに会っているのです。ヨハネが語っていた神の国は、間違いなく近づいているはずなのです。にも関わらずこうして自分は牢の中で捕らわれの身となっています。神の国の到来を感じることなど到底できるわけもありません。このようなヨハネ自身の置かれた状況から、果たしてイエス様が本当に自分が預言した救い主、メシアであるのかという迷いや不安が生じ、確信を持つことができなくなってしまった。これが、ヨハネがイエス様に弟子たちを遣わして訪ねさせた要因の一つなのではないかと思います。
そしてもう一つの考えられる要因が、ヨハネの思い描いていたメシア像とイエス様とのギャップです。ヨハネは自分の後に来る方について、このように語っていました。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」箕とは穀物をふるって、殻やごみを振り分ける道具のことです。つまりここでヨハネは、救われるものと滅ぼされるものをより分ける、裁き主としてのメシアが来られるのだと語っていたのです。それに比べてイエス様はどうでしょうか。本日の聖書箇所の冒頭では「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。」と書かれています。おそらく弟子たちからイエス様がどのようなことをなさっていたのか聞いたのでしょう。それはヨハネが想像していたものとは異なっていたはずです。イエス様は、病人や貧しい人々のもとに行って癒したり、徴税人といった罪人と呼ばれていた人々と食事をしたりしていました。これはヨハネの思い描いていたような裁きをもたらすメシア像とは異なります。こうした、イエス様とヨハネが思い描いていたメシア像とのギャップも「あなたでしょうか」と弟子たちに尋ねさせた要因となったのではないかと思います。
この「あなたでしょうか」という問いかけに対して、イエス様はどのように答えられたでしょうか。イエス様は「そうだ」とも「違う」とも言いません。イエス様はただ次のように語られました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」これは本日の聖書朗読にもありました、イザヤ書 35 章の引用となっています。なぜイエス様はイザヤ書のこの箇所を引用されたのでしょうか。それは、この箇所がイザヤが預言していた神様の救いが表されるとき、つまり神の国の到来の様子を記した箇所だからです。35 章に書かれている救いのしるしは、すでに現実のものとなり始めている。イエス様はこの箇所を引用することによって、神の国はすでに始まっているのだと、ヨハネに向かって語り掛けているのです。
今日の聖書箇所は、私たちに何を語り掛けているでしょうか。それは、人の目には見えなくても、神様の救いの御計画は進んでいくのだということです。私たちはこの世界を生きていく中で、神様の救いの御計画が進んでいるとは感じられない状況に出くわす時があります。特に、希望を見いだせないほどの困難な状況ではなおさらそう感じてしまいます。まさに牢に捕らわれていたヨハネはそうでした。私たちもヨハネと同じように、イエス様に向かって思わず「本当にメシアはあなたなのですか。」と尋ねてしまいたくなる状況に置かれる時があります。
しかしそれに対する答えは、あのイザヤ書の引用なのです。つまり、神の国はすでに始まっているということなのです。私たちの目には見えないかもしれません。しかしそれは神様の救いの御計画が止まっていることを意味しないのです。神様の御計画は、私たちの思いをはるかに超えて実現していくのです。
実際、人間の目には神様の救いの御計画を理解することはできませんでした。神様の救いの御計画は、イエス様の十字架と復活によってなされるものでした。人々はそれを理解することができませんでした。イエス様の弟子のペトロも、「そのようなことがあってはなりません。」と言ったほどでした。誰も、あの惨めな十字架の上に神様がおられるとは思えなかったのです。しかし、神様はまさに私たちの思いを超えた、あのボロボロの十字架の上におられたのです。人間の思いをはるかに超えて、神様の御計画が実現していったのです。 私たちはどうしても自分の目を頼ってしまいます。あるいは、自分たちの思いを優先させてしまうことがあります。しかしそれは、神様の救いを見失わせてしまう危険性を持っているのです。神様がおられないのではないかと錯覚を起こしてしまい、思わず「あなたですか」と問いかけてしまう時があるのです。しかし、神様はそんな私たちに、神の国はすでに始まっているのだと語り掛けておられます。神の国は、イエス様が来られたことによってすでに始まっているのです。しかし、それは未だに完成はしていません。私たちはこの「すでに」と「未だに」の間を生きています。その中において、私たちは時に神様を見失うことがあるかもしれません。しかし神様は、そんな私たちに神様の救いの御計画は今も進んでいるのだと語り掛けてくださいます。私たちの目には見えずとも、私たちの思いをはるかに超えて、私たちのために今も働いてくださっているのです。私たちのような天の国で最も小さいものをも、ヨハネより偉大なものとするために、働いてくださっているのです。
