2025年11月16日 説教 松岡俊一郎牧師

証しする機会

ルカによる福音書 21: 5 – 19

今日の福音書の個所で、イエス様が終末の兆候として示しておられます。イエス様の名をかたる偽預言者が多数現れ、戦争や地震、飢饉や疫病が起こり、さらに天体に不思議な現象が起こることが伝えられます。
今日の個所を読む前に、聖書が書かれたイスラエルの状況をもう一度確認したいと思います。2千年前です。今のように科学は進んでいませんでした。まだ地球が自転することも、天気予報もありません。人間に対する人権とか自立というような考えもありませんでした。文字を読むことができない人が多かったに違いありません。職業選択の自由もなく、女性は家事と子育て、男性は家業を継ぐだけでした。明日何が起こるか、予測もつかず毎日を過ごしていたのです。今の私たちですら、明日の天気は分かっても、いつ地震が起こるかはわかりません。戦争が起きてもそれを止めるすべを知りません。科学的な観測や情報が進んだ時代ですら不安を感じるのですから、それらがなかった聖書の時代はもっと不安であったと思います。時折流れてくる戦争のうわさや宗教的な裁きの預言が人々の不安をあおっていただろうと思います。

さて、聖書の時代、ユダヤ人にとっては信仰的にも生活においても、エルサレムの神殿が中心でした。神殿は町中の建物の中で一番大きく立派であったことは言うまでもなく、そこは神様のみ座ですから何にもまして強固で偉大なものでした。人々にとっては自分たちの生活が貧しくても、神殿が立派だということで何よりも自慢であったに違いありません。ところがイエス様は、このエルサレムの神殿が崩れる日が来ると予言されます。これに対して人々の間にも動揺が起こります。いつそれが起こるか、その前兆は何かと尋ねます。なぜそうなるのか、どのようにして起こるのか、いろいろな質問の仕方があるはずですが、まず「いつ」と尋ねます。たぶん私たちもそう聞くでしょう。この立派な神殿が壊れる瞬間、その理由なんかどうでもいい、いつそれが起こるのか、どうやって逃げるのか、それとも見物するのか、いずれにしてもその時が知りたいのです。
いつ神殿の崩壊が起こるかを知りたい人たちに対して、イエス様は終末の時の内容について語られます。世の終わりである終末について、それは必ず起こること、起こる前にはイエス様の名をかたる偽預言者が多数現れ、戦争や地震、飢饉や疫病が起こり、さらに天体に不思議な現象が起こることが伝えられます。そしてそれらが起こる前に、弟子たちも様々な迫害を受けると語られるのです。そしてイエス様はいつそれが起こるかということでなく、その時が「あなたがたにとって証しをする機会となる」と言われるのです。

ところでわたしたちは世の終わりである終末ということをどのように考えたらよいのでしょうか。先にも述べたように、災害や戦争が多い現代の私たちにとっても、イエス様の言葉は現実的な言葉として聞こえてくるのではないでしょうか。
神様は創造の神様です。その意味で、終末もまた創造の神様の業の一つです。ただの終わりではなく、終末は神様の創造の業の完成の時といえます。私たちは創造と終末に挟まれた神様の歴史のただなかに生きているのです。私たちの一生は100年足らずです。一瞬です。しかし私たちは一瞬、一瞬神様の創造の歴史に生きているのです。
創造の御業の完成といえば、聖書は既にみ子イエス・キリストの到来によって救いは完成していると教えます。それは救いの完成の予告編ではなく、確かにイエス様によって完成しています。神様はすべてを創造されたとき、それらを見て「よし」とされました。しかしそこで創造された人の心に罪が入り込み、神様と人間の関係は破れ、不完全なものになってしまったのです。完成されたはずの神様と人との関係が壊されてしまったのです。しかしそれは神様の人に対する深い慈しみと愛により、イエス様の死と復活によって回復され、再び完全なものとされたのです。その意味で私たちは今イエス様の救いの完成のときに生きているのです。しかし一方で私たちの前にはやがて来る最後の時があり、そこでも又神様の完成の時が待たれています。私たちの創造の完成のときとしての終末を前にして、イエス様の救いの完成の中に生きているのです。ここに二重の終末論と言われるものがあります。そしてそこでは、時が問題とされるのではなく、救いの完成を受け入れたものが、この二重の終末論の中でどのように生きているかという問いが与えられるのです。
特にイエス様は世の終わりの時には迫害が起こると言われています。そしてそれが証の機会となるといわれます。実際に聖書の時代では、紀元70年にエルサレムの神殿はローマ帝国によって破壊されてしまいます。そしてキリスト者にとっては厳しい迫害の時代に入ります。なぜ迫害が証しの機会なのでしょうか。それは精神的、肉体的に厳しい状況であるときにこそ、信仰が人々を支え、心を動かすことをイエス様は知っておられるからです。社会的にも経済的にも、家族関係も健康にも恵まれ、何の心配のない人が神様のすばらしさを賛美したとき、その人の中では信仰と賛美が確かなものであったとしても、周りの人の心を動かすことはありません、むしろ意に反して嫉妬心を煽るだけかもしれません。しかし重い障がいがあったり、病気であったり、不幸なことが続いたり、見るからに生活に困っている方が、喜び溢れて神様を褒め称える時には、人々は驚き、その人自身の人格のすばらしさに眼を見張ると同時に、その人が賛美する神様に目を向けるのではないでしょうか。人に、もはや誇るものがないとき、無力の時、その中で生かされる喜びが告げられる時、その人に神様の輝きが溢れ、神様の証しは真実なものとしてストレートに人の心の届くのです。聖書が直接告げている迫害は、暴力や裏切りなど人によって信仰が脅かされることを意識しています。しかし今日ではそれだけでなく、社会的な価値観の混乱による信仰の見失い、私たち自身の中の罪や誘惑による信仰の危機、そして宗教的無関心など、聖書が語る迫害とはまったく同じとはいいがいたかもしれませんが、ありとあらゆるものが私たちの信仰を脅かしています。私たちを脅かしているというよりも、神様を忘れた私たちの心の危機的状況であるといってよいと思います。

このような中にあって、私達は神様を証しする機会を与えられているのです。苦しい時辛い時は、私達はこれが証しする機会だなどと意識することは出来ないでしょう。それどころではない、何とかこの不幸な状況から逃れたいと思うのです。しかしイエス様はそんな力のない、余裕のない私たちに「あなたがたの髪の毛一本もけっしてなくならない。忍耐によって、あなたは命を勝ち取りなさい」と励ましてくださるのです。この励ましを受けて、もう一度頑張ろうと思うこと、その神様に信頼していくことこそが、神様を証しすることに他ならないのです。私たちの毎日は、様々な出来事が起こります。そのような毎日が実は神様を証しする毎日なのです。