大きな淵を超える方
ルカによる福音書 16: 19 – 31
本日の聖書箇所は、ラザロと金持ちについてのたとえ話が中心となっています。
このたとえ話は誰に向かって語られているのでしょうか。このたとえの直前の個所、ルカによる福音書 16 章 14 節にはイエス様のことをあざ笑う、金に執着するファリサイ派の人々が登場しています。そのためこのたとえ話もこのお金に執着していたファリサイ派の人たちに向けて語られたのではないかと思います。お金に執着することの何が問題だったのでしょうか。これには旧約聖書の時代から当時のユダヤ人社会まで続いていた、とある価値観が起因しています。
当時の社会において財産を持っていることは、神様の祝福がその人の上に豊かにあることを表していました。土地や家畜を持ち、財産があり、子宝にも恵まれる。こういった目に見える豊かさは神の祝福がその人にあることのしるしだったのです。逆に貧しいこと、病があること、体に不自由があることなどは神からの怒りがその人の上にあることを意味していました。このことが端的に描かれているのが旧約聖書におけるヨブ記です。
ヨブ記に登場するヨブは、正しい人で神を畏れ、悪を避けて生活していました。そんな彼にはたくさんの財産があり、7人の息子と3人の娘もいました。しかしサタンは神様に「財産を失えばヨブも神を呪うものとなるだろう。」と言いました。サタンはヨブから子供も財産も奪っていき、さらには彼を重い皮膚病にかからせます。
すると、ヨブの友人たちは彼を問い詰めるのです。「これだけの不幸に会うからには何らかの理由があるはずだ。」「何か神に対して過ちを犯したのではないか。」「それゆえに神の怒りがあなたの上に下ったのではないか。」これが当時の価値観でした。
豊かな人は神の祝福、病いや不幸は神の怒りを表すしるしだったのです。そしてこの価値観は、イエス様の時代においても同じように存在していました。 この価値観については、私たちにとっても部分的に理解することができるのではないかと思います。人生が順調な時、私たちは神様に感謝をします。逆に困難に直面したり、不幸が続いたりすると「神様はどこにおられるのか」という考えが頭をよぎってしまいます。少なくとも、そのような方の上に神様の祝福が豊かにあると考えるような人は、ほとんどいないと思います。順調な時には神の祝福、不幸な時は神の怒りという考え方は、ヨブ記ほど極端ではありませんが現代でも確かに存在しています。
しかし今日のたとえでは、この関係が逆転します。できものだらけの貧しいラザロはアブラハムのそばに、その一方で金持ちは炎の中で苦しむことになっています。
アブラハムのそばというと私たちにはあまりピンときませんが、これは天国の祝宴の上席を意味するのだそうです。つまり、貧しい人に神の祝福が、富んでいた人に神の怒りが臨んでいるのです。私たちは順接の世界に生きています。先ほどの順調な時には神の祝福、不幸な時は神の怒りといった考え方や因果応報、自己責任といった価値観はまさに順接的な考え方です。しかし、神様の目線は異なります。神様は、私たちがそこにおられるはずがないと思うような所におられる方なのです。それこそ、誰からも、神からも見捨てられたかのように思われていたラザロとともにいてくださる方なのです。
お金や財産は生きていくうえで確かになくてはならないものです。では、お金や財産に執着することの何が問題なのでしょうか。それはお金や財産で得られる安心感が、神様の救いから目をそらしてしまう時があるということです。炎の中で苦しんでいた金持ちが犯してしまった過ち。それは、財産が神の救いを保証するものであると信じていたということです。しかし、そのようなものは救いの根拠とはならないのだということを、このたとえは私たちに伝えているのです。
では私たちの救いの根拠は何処にあるのでしょうか。それは、私たちの罪のために十字架にかけられたイエス・キリストです。そもそも、人間と神との間には深い断絶がありました。それこそ、ラザロと金持ちの間にあった超えることのできない大きな淵よりもはるかに深い断絶があったのです。しかし、神様はご自身が人間となり、十字架にかかられ復活するという常識をはるかに超えた方法で、この人間の側からはどうすることもできない淵を乗り越えてくださいました。そして神様は救いにおいては何の力も持たない、まさにラザロのように打ち捨てられるはずだった私たちを神の国へと招いてくださり、復活の命を与えてくださるのです。この方にこそ私たちの救いの根拠があるのです。 最後に、金持ちが犯してしまったもう一つの過ちについてお話ししたいと思います。それは、門前にいたラザロに何の施しもしなかったということです。彼はラザロに何かをあげることも、憐れみをかけることもしませんでした。私たちもこの世を生きていくうえで、私たちにとってのラザロと出会う時があります。その時、私たちはこの金持ちとは違う行動をとることができるでしょうか。
しかしそのためにもまず、私たち自身が救いにおいてはあの打ち捨てられたラザロだったことを思い起こしたいのです。私たちにはどうすることもできない大きな淵を超えてくださり、復活の命にあずからせてくださる方が私たちを招いてくださったということ。そしてこの方が、いつどんな時も、神様が共におられないと感じられるような深い悲しみの時にも私たちのことを支えてくださっていること。この恵みを私たちの救いの根拠とすることによってこそ、困難な状況にある方々を助ける力が与えられるのではないでしょうか。神様の恵みに感謝し、私たちがなすべきことをなせるように祈りつつ、この一週間をともに歩んでまいりたいと思います。