ゆるしと招き
ヨハネによる福音書 21: 1 – 19
イエス様を十字架の死で失った弟子達の喪失感は、大変大きなものがありました。弟子たちは復活の主と出会います。復活の主との出会いは、それはそれで喜びではありましたが、一緒に過ごし、心に響いた数々の言葉を聞いた毎日、イエス様の不思議なみ業にわくわくした毎日、大勢の人が押し寄せそれを苦労しながらも喜びをもって誘導した日々は、もうそこにはありませんでした。彼らは失意のうちに、エルサレムから故郷のガリラヤに戻って来ました。しかし何をするにも気持ちがこもりません。空虚な日々でした。ふわふわとした気持ちの中で、ペトロは自分のもともとの仕事であった「漁に出る」と言いだします。その言葉に力は感じられません。他の弟子達も「わたしたちも一緒に行こう」と出かけます。そんな気乗りのしない漁師たちの網に掛る魚はいませんでした。やがて夜が明け始めました。すると岸辺にイエス様が立っておられます。200ぺキスとは90~100mぐらいです。しかし弟子達はそれがイエス様だとは気づきません。その人は「子たちよ、何か食べるものがあるか」と尋ねます。彼らが「ありません」と答えると、「舟の右側に網をうちなさい。そうすればとれるはずだ」と言われました。弟子達がそのようにすると、網を引き揚げることさえ難しくなるほど大量の魚が取れたのです。そこでゼベダイの子ヨハネが「あれは主だ」とペトロに言いました。彼はこの光景がどこか記憶にあったのです。それはルカ福音書5章が伝える弟子達の召命の出来事です。彼らが岸辺で網の繕いをしていると、イエスさまがやってきて、沖へ少し漕ぎ出し、網を打つように言われました。彼らはすでに漁は終わり、収獲がほとんどなかったことを告げますが、イエス様の言葉どおりにすると、やはり網を引き上げることができないほどの魚が取れたのです。そしてあの有名な「今から後、あなた方は人間をとる漁師になる」という言葉を告げて、弟子達を招かれたのでした。
愛弟子ヨハネの「主だ」という言葉を聞いたペトロは、裸同然だったので上着をまとって湖に飛び込みます。それには理由がありました。彼はイエス様と一緒にいた時、どこまでも一緒に行きます。「たとえ他の人がつまずいても私はつまずきません」と断言しましたが、イエス様から「あなたは、今日、今夜、鶏の二度鳴く前に三度わたしのことを知らないと言うであろう」と予告され、事実彼はイエス様が十字架にかかられたとき、三度イエス様を否認したのです。この出来事は一番弟子を自負していたペトロにとって、イエス様を裏切ったという自責の念は非常に深い傷になっていたのです。そんな彼が「主だ」という声を聞いて、まともに顔を合わせられず湖に飛び込んだのは当然のことでした。
さて、彼らが陸に上がると火が起こしてあり、すでに魚がのせてあり、パンもありました。なぜすでに魚があるのか不思議です。それなのになぜ弟子たちに漁に行くように勧められたのか、それは弟子たちにイエス様との最初の出会いを思い出させる以外に理由は見つかりません。イエス様に促され魚を網から取ると 153 匹もいたのでした。そしてイエス様はパンをとって弟子達に与えられたのです。失意の中にあり、イエス様と出会う前の日常に戻ろうとした弟子たち。そんな弟子たちに復活の主は、イエス様がたき火を用意されています。イエス様のもとには燃える情熱があるのです。弟子たちも誰だか分らなかったのにイエス様と気づいた時、たくさんの魚を取ります。これは復活のイエス様と出会った者が、多くの人間を取る漁師となる、宣教者となることを暗示しているともいえます。弟子たちがそうであるように、復活の主との出会いによって人は変えられるのです。
イエス様の復活には赦しと派遣があります。15節以下の出来事はその赦しを端的に表しています。繰り返しになりますが、ペトロはイエス様にどこまでも従うと大見えを切りました。ところがイエス様はペトロが鶏が二度鳴く前に、イエス様を三度知らないというであろうと預言されました。ペトロにとっては腑に落ちないイエス様の預言でしたが、実際にイエス様の十字架を前にしてペトロは自分が捕らえられるのではないかと恐ろしくなり、三度イエス様を知らないと否認したのです。これはペトロにとっては絶望的な事実でした。自分の弱さと裏切りをイエス様に突き付けられたのです。イエス様を否認することは結果的に、ペトロ自身を否定することになってしまったのです。イエス様の復活を知ってもこの事実は変えることが出来ません。イエス様と会うのが怖い、消えてなくなりたいほどの心境であったのではないかと思います。
しかし大逆転が起こります。イエス様はペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか」と尋ねます。ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。自信をもってと言うより、その判断をイエス様に委ねています。そしてイエス様は三度同じ質問をされます。この三度尋ねられたことによって、ペトロは自分が三度拒んだことをイエス様は忘れてはおられないことを知るのです。三回目にペトロは「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答える以外にはなかったのです。愛していることは間違いない、しかし弱さがそれを上回っていたのです。聖書は三度目の問いかけでペトロ「悲しくなった」とわざわざ記していますので、三回目の答えの後、号泣してもおかしくないほどの悲しみだったのではないかと推測します。イエス様の三度の問いかけは、ペトロを追い詰めるためではありませんでした。むしろ赦しを与えるためでした。そして赦しだけではなく、「わたしの羊を養いなさい」と大切な務めを与えられるのです。ペトロを断罪するのでもなく、無視するのでもなく、かえってペトロを選び宣教の務めを与えられるのです。それは赦し以上のものです。本当にイエス様を裏切った私でいいのだろうか。彼は信じられない思いでその務めを受け止めたのです。自分の弱さを受け止め赦してくださるイエス様の大きな愛にペトロのこれからの人生は捉えられたのです。
この出来事は、私たちにとっても大きな福音です。私たちも確信をもってイエス様に従えるかというと、自信がありません。私たちの生活には様々な誘惑があります。価値観の多様化によってこの世的な迷いもあります。信仰が弱くなったり、社会的な生活を優先したりして、いつイエス様から離れるかもしれません。しかしイエス様はそんな私たちをご存じです。私たちは自分の信仰の弱さを嘆く必要はありません。私たちから目を離すことをされません。パウロがコリント第二の手紙12章9節で聴いた復活のイエス様の言葉が「わたしの恵みはあなたに十分である、力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言っているように、パウロもまた自分の弱さに苦しめられたときに、イエス様の力強い言葉を聞いているのです。ペトロの裏切りに対してのイエス様の赦し、パウロの弱さの中に働かれる神様の力、この赦しと力をいただいて、私たちも宣教の務めへと送り出されましょう。