今年もこのままに
ルカによる福音書 13: 1 – 9
教会暦に基づく四旬節では年ごとに全体を流れるテーマが3年周期で回っています。通常マタイ福音書が読まれるA 年は、洗礼志願者のための伝統的な3つの箇所といわれるヨハネ福音書の『サマリアの女』『生まれつきの盲人のいやし』『ラザロのよみがえり』が読まれます。また、マルコ福音書が読まれるB年では『イエスとニコデモの問答』や『一粒の麦』(共にヨハネ福音書)が選ばれ、イエス様の死と復活の意味を深く学びます。そして、今年C年はルカによる福音書から『回心と罪のゆるし』がテーマとなります。
この『回心』ということば、「かい」は回る『回』であって改める『改』ではありません。神様へ向かっていなかった自分の心を神様の方へ回すこと、それが回心です。ここで大切なのは神様からの距離ではなく、向いている方向です。
今日の箇所は二つの話が合わさっています。『ピラトがガリラヤ人の血を彼らの“いけにえ”に混ぜた』というのは、ピラトがローマ総督として統治していたエルサレムにおいてガリラヤから来た巡礼者たちがローマ兵に神殿境内で殺されたと考えられる事件です。人々はイエス様に尋ねます。『悲劇に巻き込まれた人たちは特別に悪いことをしたのでしょうか?』イエス様は答えます。『(エルサレムにあった)シロアムの塔が倒れた事故で死んだ18人にしても他の人たちよりも罪深かったわけではない。』神殿で殺されたガリラヤ人、シロアムの塔で下敷きになった18人、これら大きな災難・悲劇にあった人たちはどうしてこのような目に合わなければならなかったのか、特別な理由があるはずだと当時の人々は思っていたことがわかります。
なぜ、こんなことが?』『どこをどう間違えてこうなってしまったのだろう?』不都合なこと・つらいことが起きると人間はそのどうしてもその原因を知りたくなるものです。これは現代を生きる私たちも同じです。
人間は失敗から学び、改善し、進歩する動物です。『なぜ?なぜ?』と思う心は人間が進歩させる原動力だといえるでしょう。(ちなみに製造業にはトヨタ自動車が発案した『なぜなぜ分析』という問題解決手法があります。) こんなことをしなければあのような失敗は起きなかった。大きな問題に対しても、その原因を突き止めて今後は自分でコントロ-ルできるようにしたい、思い通りにしたい。自分の心のままに全てを動かしたい。動かせないにしても、わからないままにせず、自分が理解し納得しておきたい。これは人間の根源的な性質だと思います。創世記にあるアダムとイブが神様のように全てを知りたいために知恵の木の実を食べたという物語、これは全ての人間がこのような性質を持っていることを聖書が定義していることを示しています。
ところが、悪いことは悪人には起きなくて、取り立てて悪いことをしていないような人に起きるのです。どんなに考えても、努力しても、起きる時は起きるのです。自分の思い通りにはなりません。神のみ心の通りになるのです。
福音書記者ルカはこれを通して何を伝えているのでしょう。人はどんなことをしても罪からは逃れられない、誰もが、神様の前では罪人なのだ。その罪とは“全て自分が決めたい・全て自分が知りたい・全て自分がコントロールできるようにしたい、他から干渉されるのはいやだ、たとえそれが神様であっても”という人間の根源にある性質のことを言います。人間は生まれついてのこの罪から自力で逃れることはできません。だから今こそ回心するときなのだ、聖書はそう訴えます。
そして後半のたとえ話に続きます。ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えますがなかなか実がなりません。主人は園庭に命じます。『もう3年も待っているのに実がならない。切り倒しなさい。いつまで土地をふさがせているのか。』園丁は言います。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』3年待ってあきらめた主人に向かって、園丁はいちじくの木に対する強い思い入れを持って訴えます。
このたとえ話が表すもの、いちじくの木は私たち人間のこと、主人は神様のことです。では園丁は?一般的な理解ではイエス様ですが、園丁は神様の心の一部分だともいえます。神様は厳しく正しいお方です。でも同時に罪びとである私たちを
何とかして救い出したい、本来向くべき方向へ振り返らせたいと願っておられます。
この二つの思いが合わさったものが神様のみ心です。
『もう一年待って下さい。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』私たち人間に与えられた猶予は限られています。この『一年』という期間、私たちはどう捉えればいいのでしょうか?『もう、一年しか残っていない』でしょうか。『まだ、一年も残っている』でしょうか。
四旬節のテーマは『回心』。私たち人間が回心することを心から望んでいる神様のみ心を思えばそれは明らかです。来週のテキストに踏み込んでしまいますが、なんと言っても神様は放蕩息子が帰ってくるのを待ち続け、見つけるや駆け寄って抱き締めるような方です。この猶予期間は私たちが怯えながら過ごすような時間ではありません。『まだ一年ある』ポジティブに捉えていいと思います。『回心』、自分が今どこに立ちどこを向いているのか、謙虚に振り返りましょう。そして神様のみ心がどこにあるのか、神様のまなざしがどこを向いているのか確認し、自分が向くべき方向へ振り返る時として四旬節を過ごしたいと思います。