平和を祈り、平和を創り出す教会
ルカによる福音書 5: 1 – 11
数年前、若い韓国の女性(留学生?)が街角に立って、「平和のためにハグしましょう」と立て看板を立てて、通る人と抱き合って挨拶をしているニュースが流れていました。韓国と日本は近いですが、歴史的に侵略の過去があり、今も一部の人々にとって日韓関係は厳しい影を落としています。当然その女性もそのような状況を知っていたでしょうし、だからこそこのような行動をとったのではないかと思います。実際には抱き合って挨拶をするというのは日本人の文化にはありませんから、若い人も恥ずかしがってなかなかそれに応える人は少なかったようです。私たちはせいぜい出来ても握手ぐらいでしょうか。礼拝式文の中にも「平和のあいさつ」があります。私たちはその時も近くの人と「主の平和」と会釈をするだけです。外国の教会では抱き合ったり、握手をしたりするのでしょうが、私たちはなかなかそこまではいきません。 今年の教会の主題には「平和を祈り、創り出す教会」を掲げました。平和といえばすぐに戦争のない状態を思い浮かべますが、それだけではないでしょう。人権が守られ、公平と平等が実現し、差別や格差、貧困のない社会、様々な災害や病気がないこともそれに含めていいと思います。権力者は力(武力)によって平和を実現しようとします。太平洋戦争のとき、日本は「極東アジアの安寧、平和」をうたい文句に大陸に侵攻しました。そこで言われる平和は自分の側の利益を優先した平和ですし、それは侵略の大義名分でしかありませんでした。それは本当の意味での平和ではありませんし、そもそも武力で平和を実現できるはずがありません。それは現在も続いているロシアによるウクライナの侵略、イスラエルとパレスチナの対立、イスラエルのシリア、レバノンへの攻撃を見ても明らかです。自分の国民を守る、領土を守る、自分の国の平和を実現するといいながら、誰も平和にはなれないのです。
それは平和には愛がなければならないからです。そしてその愛は時には自己犠牲、相手を生かし、相手の利益を保証するものでなければ実現しないのです。愛と平和はセットです。愛のない平和はありえません。そこには当然、ゆるしもなければなりません。争いには憎しみがつきものだからです。憎しみは双方に苦しみをもたらします。ゆるしは勇気のいることですし、自分の感情的な心を乗り越えなければなりません。しかしそれがなければ憎しみの連鎖が続くのです。
今日の世界や社会の問題は多岐にわたり、個人のレベルでは解決できないものばかりです。自分たちの無力さを感じます。しかしあきらめる必要はありません。実現は希望と祈りの向こうにあるのです。最初に述べた何の力にもなりそうもない個人のささやかな行動がやがて大きなうねりをもたらします。そして何にもましてまず私たち一人一人が愛と平和の心に変えられる必要があるのです。そのためにイエス様が十字架によって現わし実現された愛と平和を手本とするのです。
愛と平和は私たちの中から自然に生まれるものではありません。私たちの心は罪に支配されているからです。人間関係でのいがみ合い、対立、差別、攻撃など、そして国と国との対立、滅ぼしあいである戦争、いずれも私たちの心の罪に由来します。私たちの心は自己中心的な罪に支配されています。誰も罪の支配を願ってはいませんが、その支配から逃れることはできません。私たちの心と世界はこの罪に支配されているのです。その罪は神様への罪から出発しています。しかし多くの人々は神様を知らず、罪に支配されていることも知りません。対立や敵意が罪に由来していることを知らず、それに身を任せているのです。世界の不幸な状況、社会や人間関係の苦悩や悲しみもそこに由来します。しかしイエス様は十字架と復活によってその罪に勝利されました。神様に対する罪を人は許すことはできません。しかし神様はひとり子イエス・キリストを十字架にかけることによって、私たちの罪を許してくださったのです。私たちは十字架によってゆるされたのです。しかし私たちから罪がなくなったわけではありません。依然として罪に由来する悪は残っているのです。しかし、罪に勝利されたイエス・キリストの言葉と生涯に倣うならば、私たちも罪の支配から逃れることができるのです。そして世界の平和のためには、この救いと平和を創り出すすべを宣べ伝えなければならないのです。それが教会の使命です。今日の総会で、私たちはこの主題を選び取ります。大岡山教会の宣教の目標、根拠、励みとしていきたいと思います。先ほど申し上げたように、私たちの力はとても弱く小さいものです。様々な抵抗や難しさの中では何もできません。しかし一人で出来なくても、教会を通して、同じ信仰を持つ仲間とともに力を合わせながら歩みを続けていきたいと思います。