ピラトの問い
ヨハネによる福音書 18: 33 – 37
50年ほど前に「ジーザス・クライスト・スーパースター」という映画が上映されました。この映画は私のお気に入りのひとつで、サウンドトラックのアルバムも持っています。この作品は、劇団四季でも公演されたように、ロックオペラのミュージカルとして上演されたものですが、作曲家であるアンドルー・ロイド・ウェバーは、「エビータ」、「キャッツ」、「オペラ座の怪人」など、他のミュージカル作品でも有名な方です。イエスキリストがエルサレムに入城する直前から、十字架に架かるまでを描いた物語で、現代的な脚色を取り入れた興味深いものでした。特に今でも思い浮かぶのが、クライマックスとも言えるピラトの裁判の場面でした。裁判の中でイエス様は39回の鞭打ちを受けるのですが、その39回すべてを1分半に渡って音楽と映像で映されるシーンで、大変な衝撃を受けました。
ピラトは、ローマ帝国の第5代ユダヤ属州総督で、紀元26年から36年までの約10年間ユダヤやサマリヤなどの行政を任されていました。毎週の礼拝で唱えている信仰告白にも登場するので、12弟子の名前を全部言えなくても、ピラトの名前は皆さんご存じだと思います。
今日の福音書はピラトとイエス様との審問が読まれました。ピラトから出された問いは3つ。「お前がユダヤ人の王なのか」、「いったい何をしたのか」、「それでは、やはり王なのか」。しかしイエス様の答えをピラトは理解できません。対話は平行線をたどります。朗読には含まれませんでしたが、これらのやりとりの後、「真理とは何か」という捨て台詞のような言葉で審問を打ち切ってしまいます。
ピラトは帝国から派遣された地方の行政長官です。任期中の働きによって、その後どのような地位になるのかが決まります。NHKの大河ドラマ「光る君へ」で、紫式部の父親が越前守に任じられます。スケールは違いますが、それと同じような地位でした。任期中に何か功績があれば、帝国に戻ったときにより高い地位に、失態があればそのまま職を失ってしまうような立場でした。聖書には書かれていませんが、総督であったときのピラトの行いはあまり評判が良かったものではなかったようで、帰国後はガリア地方に流されて、最終的には自殺したとも伝えられています。
ピラトはそのような立ち位置でしたから、イエス様の裁判には消極的であったと思います。ユダヤ側からの訴えが「自分たちには死刑にする権限がないから死刑にしてほしい」というものであり、どう見てもイエス様はローマ帝国を転覆させようとする政治犯には見えず、ユダヤ民族内の宗教的な対立には見えませんでした。宗教的な対立であれば、そのまま死刑にしてしまうとイエス派と反イエス派との間の争いが生じかねず、自分が治める地域での内紛を招いてしまう可能性があります。最初の問いである「お前がユダヤ人の王なのか」に「そうだ」という答えが返ってきたのなら、帝国に弓を引く反逆者としてあっさり死刑の判決を出したでしょう。しかしイエス様の答えは「はい」でも「いいえ」でもないものでした。そこでピラトは「それでは何をしたのか」と言葉を変えます。「ローマ帝国からユダヤを解放する活動をしていた」というような答えを引き出せれば、死刑にできるからです。イエス様の答えは期待していたことの斜め上を行くようなものでした。それでも答えの中にあった「わたしの国」という文言を引いて「やはり王なのか」と畳みかけますが、イエス様からの答えはやはりピラトにとってかみ合うものではありませんでした。
人はそれぞれ微妙な立場に立つことがあります。片方に味方をすると、もう一方から強い批判を浴びてしまう。どのようにするとすべてが丸く収まるかが見えないとき、問題の本質が見えずに表面だけを見てしまいます。最初の問いのイエス様の答えで「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」とありますが、ピラトはこの裁判に表面的にしか関わろうとしていなかったことがわかります。ピラトが「審問」という形ではなく「対話」という形でイエス様と対峙していたのならば、もう少し本質に近づくことができたのかもしれません。しかし裁判のときのピラトは、どうすれば波風を立てずに裁判を終わらせるかしか頭になかったために、それ以上の対話をすることができませんでした。
今日は教会暦の最後の日曜日、「永遠の王キリスト」の日として礼拝を守っています。礼拝後に大掃除とクリスマスの飾りつけをして、来週からのアドヴェントを迎えます。ピラトは理解できませんでしたが、もう少しイエス様の答えについて考えていきたいと思います。
イエス様は「わたしの国」と「真理」という言葉を答えの中で使いました。そして「わたしの国」はこの世には属していないとも言われました。「わたしの国」は「真理」と密接につながっています。
「真理」とは何でしょうか。意味を調べてみると「確実な根拠によって本当であると認められたこと。ありのまま誤りなく認識されたことのあり方。」とありました。私たちの世の中は、すべて相対的な尺度によって正しいことと間違ったことが判断されます。裁判では、多くの知恵によって相対的にまとめられた法律という尺度によって判決が下されます。相対的な尺度の例として挙げられるのが、「人は人を殺してもよいのか」という命題です。法律では殺人は罪として判断されますが、戦争などが起こったときには罪として罰せられることはありません。ウクライナやパレスチナの戦場では、民間人が殺されたのかどうかで善悪が判断されます。しかし「真理」には相対性はありません。ありのまま誤りのないこととした絶対的なものです。様々な意見をまとめて導き出されるものではないのです。
ヨハネによる福音書には「真理」という言葉が20か所以上で記されています。マタイ、マルコ、ルカの福音書で「真理」が記されている箇所は1か所のみ、それもユダヤ人がイエス様を陥れるために皇帝への税金を納めるのが正しいことかという場面だけです。ヨハネが「真理」という言葉に大変こだわっていたことがわかります。ヨハネによる福音書の中から「真理」を見つけ出してみたいと思います。
1章14節では「言(ことば)は恵みと真理とに満ちていた」。イエス様は恵みと真理とに満ちていた、とあります。17節では「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」。これは今日の福音書にある「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」と合致しています。4章24節には「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」とあります。礼拝するものは真理をもって礼拝することが書かれています。8章44節では「悪魔は真理をよりどころとしていない」と悪魔は真理とは関係ないと書かれています。14章17節では、イエス様が十字架に架かられた後に弟子たちに「真理の霊」と遣わすと書かれています。このように、真理はイエス様と共にあり、イエス様によって語られ、十字架の後は霊と共にあると書かれています。それでは、イエス様、霊と共にある真理とは何でしょうか。それは3章16節にあらわされています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」真理とは、神が愛であることです。イエス様は弟子たちに何度も愛を説きました。3章16節だけでなく、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。(13章1節)」とピラトへの答えの通り、神の愛を弟子たちに証ししてきました。この愛は自分に向かうものではなく、他者に向かうものだとも教えられています。12章25節にある「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」という言葉は、神の愛は自分だけ享受するものではなく、隣人と分かち合うものだと教えています。この愛は最後の晩餐において、弟子たちの足を洗うという行為としても示され、13章34節にあるように「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という掟として弟子たちに伝えられました。
神様が私たちを愛してくださっているということは「真理」です。イエス様の言われる「わたしの国」は愛が支配する世界です。ピラトのように、自分の立場だけを思ってイエス様の語られる真理を理解しようとしないという姿勢ではなく、私たちを愛し、私たちの罪をすべて負って十字架に架かることで私たちの罪を洗い流してくださったイエス様を思い、互いに愛し合うというイエス様が与えてくださった掟を常に心に刻んで、クリスマスを迎えたいと思います。