2024年11月10日 説教 松岡俊一郎牧師

心からの捧げもの

マルコによる福音書 12: 38 – 44

どんな宗教にも捧げものがあります。お酒や果物の供物、献金、榊の奉納などです。中にはその額や量の多さを競う場合もあります。旧約聖書の時代には、収穫の初物を捧げる、あるいは収穫の10分の一を捧げる習慣もありました。今日でもキリスト教の教会の中にはこの10分の一献金を奨励する教会もあります。ルーテル教会ではあまり強調しません。この捧げる習慣とは、もちろん感謝の捧げものとして行うのですが、宗教の中にはそれを功績として考えているところもあります。どれだけ捧げたからどれだけ救いや恵みがもらえるか、いわゆる功績思想です。教会の歴史にもそれはありました。しかし今日の福音書ではそれとはまったく異なることが教えられているように思います。

今日の福音書の日課の前には、イエス様が律法学者を非難される言葉が書かれています。律法学者は長い衣をまとって偉そうに歩きまわり、広場では人々から挨拶されることを喜び、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、寡婦の家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。大変厳しい非難です。当時のユダヤ社会は律法中心の社会でしたから、その知識にたけていた律法学者たちは多いに権勢を誇っていたのです。人々の信頼と尊敬は、やがて彼らを傲慢にし、信仰も虚飾にまみれたものになっていたのです。マタイによる福音書6章2節でイエス様は、「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹きならしてはならない。… 施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と言われています。祈りについても「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」と言われています。すべての人がそうであったとは思えませんが、当時の律法学者の姿を如実に表しています。律法学者たちの多くはファリサイ派でした。彼らは律法を守ることが何よりも大事だと考えていましたから、律法を守らない人、羊やヤギなどの動物を飼うなどして安息日規定を守れない人々を軽蔑していました。しかしイエス様は、神の愛はそのような弱い立場の人にこそ注がれていると考えられていましたから、このような偽善的な行為に対してイエス様は大変な嫌悪感を持っておられたと思われます。そしてこのことは律法学者だけでなく、私たちにも信仰者のあるべき姿を教えているように思います。
イエス様は、神殿の前のさい銭箱の反対側に座って大勢の人が献金を投げいれる様子を見ておられます。そこでは特にお金持ちの人はたくさん入れていました。このさい銭箱は神殿の維持管理のためにおかれていました。当時の感覚から言えば、献金は多くした者が評価されていたと思われますから、たくさん献金をする人は自慢げに投げいれ、まわりもそれに感嘆の声を上げていたのかもしれません。しかしそこに一人の貧しいやもめが来て、当時の最小貨幣であったレプトン銅貨二枚を入れたのです。その姿を見てイエス様は、弟子達に向かって「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言われたのです。壮大な建築物であった神殿の大きさを考えるならば、このやもめがささげた献金額は、あってもなくてもどうでもいいような額でした。しかしイエス様は額を問題にされませんでした。金持ちのあり余る中からの献金とやもめのなけなしのお金とを比べるならば、額を見るならば、金持の献金が多いに違いありません。額を基準とし額を評価されるならば多いに越したことはありません。しかしイエス様は、額ではなく、やもめが自分の持っているものすべて、生活費全部をいれた捧げる心を評価されたのです。

ここで言われていることは、神様にどれだけ捧げるかではなく、何を捧げるか、どのような思いで捧げるかということです。旧約聖書の日課には、エリヤが主の導きによってサレプタという町に行った時のことが記されています。エリヤがサレプタに着くとそこに一人のやもめが薪を拾っていました。エリヤは女に声を掛け「器に少々の水を持って来て、私に飲ませてほしい」と言います。さらに厚かましいことに「パンも一切れ、手に持ってきて下さい」と言うのです。そこで女は「わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」と正直に答えました。エリヤはそれでも主の言葉を信じて持ってきなさい、と言います。女がエリヤの言葉どおりにすると、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくなることなく、いく日も食べ物に不自由することがなかったのです。
この二人の女性に共通することは、「全部」捧げたことであります。貧しい寡婦がレプトン銅貨二枚持っていたということは、一枚を残して一枚だけを捧げることもできたのです。むしろ私たちはそうするでしょう。昼食や夕食に必要な食事代は残して献金するし、それだけでなく、次の給料日、年金支給日まで生活できるようにしっかり確保しておくのです。しかしこの女性はそうしなかった。すべてをささげたのです。
パウロはローマの信徒への手紙12章1節で「自分の身体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝である。」と言っています。
もちろん私は新興宗教やカルト宗教が信徒から全財産を吸い上げるように教会に献金しなければならないなどと微塵も思ってはいません。しかしそうではなくとも、女性たちがすべてをささげたことに注目したいのです。それは額の多い少ないではありません。神に向かう心、神様に何をどのような心で捧げるかです。ここで言う「全部」は、私たちの命と存在そのものです。与えられた肉体、与えられた時間、与えられた財産、与えられた知識、与えられた仕事、与えられた関係、すべてを神様のものとすることです。それは終末論的と言えます。現実の生活をしながら、私たちが神様のもとに生きていることを信仰によって確認することです。これは額や量の多い少ないの次元を超えて、また律法学者や私たちが陥りやすい傲慢や偽善と決別し、神様の命に生きることです。
この二人の女性の捧げる姿の中には、その心があったのです。もちろん彼女たちはそれに気づいてはいなかったでしょう。しかしイエス様は気づかれているのです。