2024年10月13日 説教 松岡俊一郎牧師

神様にはできる

マルコによる福音書 10: 17 – 31

聖書の時代の人々が一番求めていたことは、永遠の命を受け継ぐこと神の国に入ることでした。そのために彼らは律法を求め、律法を守っていたのです。これは現代の私たちの価値観とはだいぶ異なります。私たちは何を大切にし、求めているのでしょうか。時代や地域によって、その世界を支配しているものは違います。中世ヨーロッパは教会が力を持ち、民衆とその時代の価値観を支配していたと言っていいと思います。ある時代は戦争が繰り返され、軍事力が支配していました。今でも地域によっては紛争が続いていますし、国際関係は武力を背景として緊張関係が続いています。今の世界を支配しているのは経済です。国際社会でも個人の生活でも、経済を無視しては暮らしていけません。そのスケールは国際関係に影響することもありますし、私たちの身近な暮らしと直結している面もあります。そうするとおのずと私たちの関心もそこに集中し、影響するのです。

さて、福音書を見てみましょう。ここにひとりの人が登場してきます。マタイ福音書では青年、ルカ福音書ではある議員となっています。この人がイエス様に尋ねます。「永遠の命を受け継ぐにはどうしたらいいでしょうか。」彼は律法を守ることがその道であることを知っていたはずです。知っていながらイエス様に尋ねたのは、イエス様を試すためではなく、律法を守りながらも、これで永遠の命を得られるだろうかというまじめな疑問にぶち当たっていたのではないでしょうか。マルチン・ルターもまた、厳しい修道生活を自ら実践しながらも、神の義を得られる実感が得られず苦悩していました。イエス様はモーセの十戒のことばをあげられます。すると彼は、それらは子供の時から守っていますと答えます。この時、彼は自慢げにというよりも、ちょっとがっかりしたかもしれません。もう少し違う答えを期待していたでしょう。するとイエス様は彼の予想を超えたことを言われます。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。」そしてさらに言われます。「それから、わたしに従いなさい。」これを聞いて、彼は気を落とし、悲しみながら立ち去ります。聖書は、彼がたくさんの財産を持っていたからと説明します。しかし、この説明は少し不十分です。たくさんの財産を持っていてもそれらを売り払って従うことは出来たからです。しかし聖書にある確信があります。たくさんの財産を持っている人はそこから離れられない、逃れられないということです。

それではなぜ金持ちは永遠の命を継ぐことが出来ないのか、神の国に入ることが出来ないのでしょうか。永遠の命も神の国も、人があるべき神様との正しい関係を言っています。その関係の中では、人は神様に向い、神様に従わなければなりません。それができて初めて神様との全き関係に入ることが出来、そこの関係の中でこそ永遠の命を受け継ぐことが出来るのです。しかし、人が財産を求め、財産を手にするときには、そこには全身全霊を持って神様に向っているとは言えません。何しろ財産を守ることに必死にならなければそれを失ってしまうからです。当然その人はイエス様に従うことが出来ないのです。聖書はそのような人の姿、人の弱さ、人の本質を見抜いているのです。だからこそ、今日の旧約聖書の日課を見てもわかりますが、聖書は権力者や金持ちに対して厳しい目を向けているのです。さらに当時の権力者や金持ちは、私腹を肥やし、弱いものを顧みず、むしろ抑圧していたからです。しかしそれはただ単純に権力者や金持ちに対する言葉ではありません。そうではなく、権力やお金や財産に執着する心に向けられていると言っていいでしょう。
私たちは実際にそれらを持っていなくても、それに執着する心はあるからです。イエス様が「持ち物を売り払って貧しい人に施しなさい」と言われるのは、ただ人に施すということではなく、それらの執着から解放され、自由になりなさいと言われているのです。執着は心をとらえ、心を縛ります。人を満足させるどころかかえって不自由にします。しかし私たちはこの縛りから自由になることが出来ません。そしてそれはもはや私たち個人の心だけでなく、社会の構造、世界そのものがそうなっているからです。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」と言われるほどに、難しく不可能に近いならば、それではどうしたらいいのでしょうか。「それでは誰が救われるのだろうか」という弟子たちの間で沸き起こった疑問は私たちの疑問でもあります。このイエス様のことばの前で私たちも悲しみながら去らなければならないのでしょうか。

世界や文明そのものがそれに染まっているとするならば、私たちは自分の身を特別な環境におかなければ、その執着と欲望と価値観から抜けだすことはできないかもしれません。修道士たちは、修道院の中にそれを求めました。禁欲、労働、祈り、これに集中することによって、あらゆる執着から解放されようとしたのです。現在の私たちはどうするでしょうか。私たちも修道生活を始めるでしょうか。それとも消費社会から隔絶された自然環境に身を置くでしょうか。いずれも現実的ではありません。

イエス様は、「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」と言われます。私たちが自分の力や努力で執着から逃れようとしても、それはできません。しかし、イエス様は、神様はその力を持っておられると言われます。神様のみ心は人々を拒むことではありません。イエス様が言われるように、神様は私たちをどこまでも招いておられるのです。その招きの力はどこまでも私たちを追い求めます。この招きを拒まないことです。「神様にはできる」、私たちを救うことはこの一点に頼ることです。