2024年9月29日 説教 松岡俊一郎牧師

キリストの弟子への報い

マルコによる福音書 9: 38 – 50

人には自分が目立ちたい、自分を偉く見せたい、受け入れられ大切にされたいという思いがあります。これらは人に努力を覚えさせ、成長させるという意味ではとても大切なことです。しかし、人は時々その思いだけが先行して、自分をひとかどのものだと思いあがったり傲慢になって威張ったりするのです。その意味で弟子たちは私たちの代表と見ることが出来ます。

弟子たちはイエス様によって弟子として選ばれ、昼夜を問わず一緒に過ごし、誰よりもイエス様と密な生活を送っていました。そのイエス様は日に日に有名になって、行く先々で大勢の群衆に取り囲まれ尊敬され歓声を浴びていました。そのような毎日を送っていると、弟子たちはなんだか自分までも偉くなったような錯覚にとらわれてしまっていたのです。これは私たちの間にもあります。自分の知り合いに社会的な地位の高い人がいると、自分はその人と知り合いだと言って、さも自分が偉いようにふるまうのです。弟子は自分たちの間で誰が一番偉いかと議論したり、イエス様が栄光をお受けになる時に自分も横に座らせて下さいと求めたりしていることからも、彼らがそのような誘惑と錯覚に陥っていたことがわかります。そんな折、弟子の一人ヨハネが、イエス様の名前を使って悪霊を追い出しているのを目撃し、自分たちがそうするのはまだしも、弟子でもない人がイエス様の名前を使うことなど、これはとんでもないこととやめさせようとしたのですが、その人はやめなかったのです。そこで彼はイエス様にそのことを報告したのでした。

イエス様は弟子たちの中に、傲慢なこころを見つけられます。弟子たちは、イエス様の名前を使うことは自分たちにだけに認められた権利だと思っていたのです。しかしイエス様の名前は弟子たちのものではありません。弟子たちこそがイエス様のお名前のもとにあるのです。その主の名によって弟子たちはその働きをすることが出来るのであって、弟子たちが主のお名前の自由にできるものではないのです。イエス様は言われます。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」パウロもまたコリントの信徒への手紙一の12章3節で「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から捨てられよ』とは言わない」と言っています。主の名を使う人がその舌の渇かないうちから主を呪うことはないのです。もし呪うならば、それは自分で自分の首を絞めるようなものだからです。旧約聖書でも次のように伝えています。神様は出エジプトの時、モーセをユダヤ民族のリーダとして立てられましたが、必要に応じてモーセ以外の人にも預言の賜物を与えられました。ある時、七十人の長老にも霊が降り、預言を語るようにされました。それは一時のことだったのですが、二人の人が依然として預言を語り続けていたので、ひとりの若者がモーセのところにそれをやめさせるように報告したのです。しかしモーセは、「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」と答えたのです。

いずれにしても、イエス様の狙いは弟子たちの思い上がった心を戒めることにありました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(マルコによる福音書10章43-44節)主イエスの近くにいて尊敬を集め権威を託される者は、かえって仕える者にならなければならないのです。これは十二人の弟子だけに言われることではなく、イエス様のみ言葉をいつも聞き、主のみ名によって洗礼を受けた私たちにも与えられている言葉です。みことばに親しんでいるからこそ、主の名によって聖霊が与えられているからこそ、かえって思い上がることなく、他者を愛し、他者に仕える生活が求められているのです。ヤコブの手紙4章14節では、このことをより具体的な形で述べています。「あなたがたは自分のいのちがどうなるか、明日のことは分からないのです。」「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしようと言うべきです。ところが、実際は、誇り高ぶっています。」

今日の福音書の日課ではさらに、つまずきを与えないように求められています。
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかに良い。」大変厳しい言葉です。それでは「これらの小さい者の一人」とはいったいだれのことでしょうか。この前後で小さい者と言えば、先週の日課でイエス様はひとりの子どもを抱きかかえて中央に立たせられていますので、子どものことでしょうか。しかし、子どもに限定するする必要はないでしょう。わたしたちがつまずかせる可能性のある相手は子どもに限らないからです。社会的に弱い立場の人、信仰的に十分に成長していない人、心や体が弱い人、迷いや孤独の中にある人、いずれもつい私たちがその人の前で強い者として立ってしまう人々のことだと思います。イエス様はそれらの人々のつまずきにならないようにと諭されるのです。つまずきとは何でしょうか。罪を犯させることです。私たちが弱い立場の人を罪に誘うことです。私たちは露骨にそんなことはしません。しかし気づかないところで罪に誘ってしまう、信仰の躓き、信仰への道を閉ざしてしまうことがあります。

私たち牧師はいつもそのような危険をはらんでいます。多くの方は牧師を尊敬して下さいます。その延長線上で、牧師は立派な人だ、立派な生活をしていると思って下さいます。私から見ればそれは美しき誤解なのですが、でもそうです。ところが牧師が二三人集まって気をゆるして歓談していると、きわどいことを口走ります。
お互い献身した身としてどんなことがあってもイエス様と教会に仕えるという前提がありますから、安心してどんなことでも、時には不信仰なことでも言うのです。
ところがそこに教会に来て間もない方がいると、「えっ!そんなこといっていいんですか。信じられない。」とつまずきを与えてしまうのです。そうなると後の祭りです。冗談で受け止めていただけるといいのですが、そうでなければ、まさに牧師がその人の信仰のつまずきになり、信仰の道を閉ざしてしまうのです。

さて、イエス様はさらに「もし片方の手があなたをつまずかせるならば、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命に与かる方がよい。」同じように足も、目もと言われます。これらの体の部分は誘惑に陥りやすい場所の代表として選ばれています。いずれにしても、
「あなたをつまずかせるなら」という言葉のように、他者をつまずかせるだけではなく、私たち自身が誘惑に陥ってつまずかないように注意しなさいと言われるのです。罪への誘いは誰にでも忍び寄ってきます。いつも自分の内側から、あるいは外から働いて、神さまから私たちを引き離そうとします。しかし、引き離されないために私たちの心にイエス様の十字架のくさびが打ち込まれました。この楔である十字架は私たちの心を神さまに強く結びつけるのです。この十字架を私たちが信じ大切にするときには、私たちは決して神様から離れることはないのです。