2024年9月22日 説教 鈴木連三氏 (信徒)

逆転の先に

マルコによる福音書 9: 30 – 37

『学者金持ち後回し』という言葉があります。これは幕末から明治にかけて生きた女性宗教家・天理教の教祖としても知られる中山みきさん言葉です。忠義・孝行という服従精神が広く説かれていた時代に、上に仕えることよりも苦しんでいる普通の人々を助けることが善だと訴える、世間の常識や価値観と逆転した世の救いを求めた言葉です。

受難と復活の予告

イエス様は弟子たちにこれから起きる十字架と復活を受け入れることを促すために語られました。しかし予告が 2 回目になっても弟子たちは十字架と復活について理解できません。受け入れられません。ずっと身近にいたからこそ、弟子たちは、この予告は受け入れられなかったのだと思います。そして弟子たちは怖くて聞けませんでした。何が起きるのか・自分たちはどうなるのか全く想像できなかったからです。
人間にとって怖いものというのは 3 種類に分けることができます。一つは肉体的な恐怖…高いところが怖い、早い乗り物が怖い、猛獣の群れに囲まれると怖いといったことです。「痛い」とか「死ぬかも」といったことを直接連想させる怖さです。二つ目は精神的な恐怖です。暗闇が怖い…暗闇の中に何かいたらどうしよう。これは
人間の知識とそこから生まれる想像力が起こすものです。三つ目は知的な恐怖です。
『未知への恐怖・知らない事への恐怖』とも言い換えることもできます。もっとも典型的なのは『死』への恐怖です。死んだらどうなるのか?予想できないのが気味悪くて怖いのです。わからないから安心できないのです。これらが生まれつきの気質やそれまでの経験・トラウマと合わさって恐怖は形成されているのでしょう。実はこれら三つすべては知的な恐怖につながっています。 高いところが怖い→落ちたらどうなる?暗闇が怖い→自分では対応できないものが出てきたらどうなる?人間が一番怖いのは自分には想定できないことが待っていることです。どんなに大変なことでも想定できればそれなりに対処もできるし覚悟を決めることができます。でも、何が起きるかわからなければ、腹をくくることすらできないからです。ほぼ順調な宣教活動を続けていた中での受難の予告は、弟子たちにとってまさにあってはならない・想定ができない話でしょう。『そんなことが起きたら俺たちは一体どうなるのだ?』十字架を受け入れることは非常に難しい話でした。

誰が偉いかを論じる弟子たち

イエス様と弟子たちがカファルナウムに着き、家に入ると、イエス様は弟子たちに話しかけます。『途中で何を話し合っていたのか?』彼らは移動中、誰が一番偉いかを議論していました。イエス様がエルサレムに行けばきっと大成功するに違いない。その時にはできるだけ成功の中心にいたい、自分の心が世間に対してかなう人間になりたい。でも、このような話題があまり好ましくないことをよく知っていた弟子たちは、イエス様の問いかけに黙り込んでしまいます。イエス様は続けて言います。
『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』
『後になる』というのはここでは『仕える者になる』ということです。『後になる』というのは “後から出世する”という意味では決してありません。出世したいという気持ちを捨てることを求められているのです。『いちばん先になりたい者は』とは言っていますが、偉くなるための手段や条件として仕えるのはではありません。偉くなりたいという考えはそもそも捨てなさい・そしてひたすら仕える者になりなさいという逆転した生き方をイエス様は求めます。『後になる』というのは『人の後を歩きなさい、そして人に尽くしなさい』という意味です。ここでは『自分の心がかなうこと』は後回しです。

『小さいもの』を受け入れること

『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、・・・。』ここでは子供というのは“成長途中だけどかわいい愛すべきもの”ではなく、ただただ生産性の低い劣った存在として扱われています。
そんな大人に比べて劣った存在を受け入れること。それが十字架に架かかる救い主イエスを受け入れることなのだ、そして救い主イエスをお遣わしになった方=神様を受け入れることなのだとイエス様は言います。
コリント書に『十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。』とあるように、キリストの十字架の姿はみすぼらしい姿です。私たちにはこの理解できないものを目をつぶることなく受け入れることが求められています。受け入れるということは、やがて起きる十字架を否定しないでただ待つだけではありません。心から受け入れるというのはどういうことでしょうか?
神様は小さく価値のないように見えるものの中におられます。十字架の上におられます。その神様は私たちを愛し、救いに導く神様です。価値のないものを価値あるものとして受け入れる、仕えられるものではなく仕えるものになる。このような価値観・生き方が神様の救いと繋がっているのです。それは十字架こそが人に仕える究極のかたちだからです。

受け入れる・受け入れられる

しかし、私が小さいものを受け入れ、十字架を受け入れ、生き方を仕える方に切り替えた。だから、神様が私を祝福してくださるのかというと、そうではありません。まず、神様が私を愛し、私のために御子を十字架にかけて下さっている、流れの方向は逆転しているのです。この前提があるからこそ、私たちは愛を持って仕える者として世界に送り出される者になれるのです。私たちが神様を受け入れるということは、私たちが神様に受け入れられていると感じることです。神様のみ心は計り知れません。私たちには想像できないことばかり、理解できないことばかりです。でもそれらを全てひっくるめて怖れず任せて頼れば、御子を十字架につけられた神様の心、キリストの復活による平安を与えてくださる神様の心に触れることができるのです。