2024年9月1日 説教 小林恵理香氏 (信徒)

隔たりの幕を裂く方

マルコによる福音書 7: 1 – 8, 14 – 15, 21 – 23

福音書によく登場するファリサイ派の人々は、律法の掟を重視し、文字通りに掟を守って生きることを求めていました。様々な規則をきちんと守ることで、汚れから身を守り神様に近づくことができると考えていたからです。今日の福音書で問題になっている「洗わない手で食事をする」のも、コロナ禍で言われたような衛生観念、病気予防の話ではなく、宗教的な清さのことです。手を洗うことで汚れ(けがれ)を落とし、身を清めるのです。「市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない」とありますが、市場は異邦人と接触する場であり、特に汚れを移されやすいと考えられていました。
ファリサイという言葉は「分離する」という言葉に由来し、「罪や汚れから分離した者」を指すようになったのではないかと言われています。律法では、死や病気、またそれにつながるものが汚れとされていました。汚れに触ればその汚れは伝染し、自分も汚れてしまいます。汚れから離れ、清くなること、それが清い神様に近づくための条件であり、ファリサイ派の人々にとっての「神様に愛される生き方」でした。律法を熱心に学び、それを厳格に守ろうとすること自体に問題はありません。むしろ神様の命令に忠実に生きようとする素晴らしい姿勢といってもよいでしょう。ファリサイ派の人々の問題は、律法学者たちが何世代もかけて作り上げてきた律法解釈、すなわち「昔の人の言い伝え」までも実行することを人々に要求し、それらのルールを実行できず汚れから身を守れない人を正しくない人として切り捨ててしまったことです。
ファリサイ派の人々は、自分たちが神様に愛される生き方をしていると自負していました。自分たちこそ清く、神様に近い存在だと考えていました。それなのに、汚れた(けがれた)手で食事をするような、無学で「清くない」弟子たちと共にいるイエス様も同じように汚れた存在である、というのが彼らの主張であり、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」という発言につながっています。それは、イエス様と弟子たちを見下すことで、自分たちは神様に近い存在であることを周囲にアピールし、優越感を得るための問いです。このように、ファリサイ派の人々が主張する宗教的な清さは、神様を愛し、神様の栄光を示すものではなく、人を区別し人々を神様から遠ざけるものになってしまっていました。

イエス様の周りに集まっていたのは、貧しさや病気に苦しんでいた人々でした。そのため、宗教的な清さを保つための様々な戒めを守ることができませんでした。恐らく自分たちは汚れている、自分たちは神様から見放されていると思っていたことでしょう。イエス様は、そのような人ひとりひとりに目をかけられました。広場に置かれた病人を癒すイエス様の姿は、市場から帰ったときに身を清めようとするファリサイ派の人々と対照的です。
イエス様は言われます。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ7:15) 「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。」(マルコ7:21)と。手や体を洗うことと神様との距離は関係ないということです。宗教的な清めの行いをしているかどうかに関係なく、人の心の中から出てくる悪い思いが、私たち人間を神様から引き離す原因となります。それは、ファリサイ派の人々や律法学者であろうと、貧しさや病気に苦しむ人であろうと、異邦人であろうと同じです。
では、誰が神様の前で清い者とされるか、どうすれば神様に近づくことができるのかという疑問が生まれます。心の中から出てくる悪い思いが人を汚すのであれば、私たちの誰一人として、自分は神様に相応しい存在である、とは言えないのです。

詩編15編で、ダビデは以下のように問いかけます。
主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り
聖なる山に住むことができるのでしょうか。

幕屋というのは、神様が臨在される聖なるところを意味します。どのような人があなたの幕屋に宿ることができるか、すなわちどのような人が神様の臨在のもとにいることができるか―――、それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人だとダビデは言います。続く言葉は、正しいことを行う人について具体的な例を挙げて説明するものです。これら一つ一つを神様に愛されるための条件として読むならば、私たちはなすすべなく、うな垂れるしかありません。
幕屋は後のエルサレム神殿の原型となったものですが、マルコ15:38には、イエス様が十字架の上で息を引き取られたとき、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」ことが書かれています。神殿の垂れ幕は、神様が臨在するとされている至聖所の前に掛けられていました。至聖所には、大祭司だけが罪の許しのために生贄のやぎの血を携えて入ることが許されていました。罪の許しがなければ、大祭司といえども神様がおられる場所に近づくことができなかったということです。

ファリサイ派の人々は、宗教的な清めを行うことにより、神様に近づこうとしました。神様は、イエス様の血をすべての人の罪の対価とされ、私たちを清い者とする道を選ばれました。イエス様の十字架を通して、私たちは、幕屋に宿り、聖なる山に住むのにふさわしい存在とされています。もはや神殿の垂れ幕は必要ありません。神様と私たちを隔てる必要がなくなったのです。 
先週、私たちは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたその人の内にいる。」(ヨハネ6:56)というイエス様の言葉を聞きました。私たちにはできないことかもしれません。でも、神様にはできるのです。詩編15編は、私たちの内に住んでくださるイエス様によって、私たちは完全な道を歩き、正しいことを行う人とされているという祝福の言葉です。
「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはなりません。」(ヤコブ1:22) これは神様に愛されるためのノウハウではありません。神様に許され、愛されている私たちの生き方です。私たちといつも一緒にいてくださる神様が、私たちを通して働いてくださることを信じます。