2024年8月18日 説教 松岡俊一郎牧師

聖餐式の意味

ヨハネによる福音書 6: 51 – 58

キリスト教の中には大切なものがいくつもあります。聖書やそのみ言葉を信じる信仰、祈り、信条や讃美歌などです。礼拝の中で行われる洗礼や聖餐式は特に重要です。この二つは聖礼典(サクラメント)と呼ばれます。洗礼はただ一回のものですが、聖餐式は繰り返し行われます。今日はこの二つについて学びたいと思います。

まず洗礼です。洗礼はキリスト教から始まったものではなく、すでにユダヤ教でも行われていました。新約聖書にも最後の預言者と呼ばれるバプテスマ(洗礼者)のヨハネがヨルダン川のほとりで人々に洗礼を授けていましたし、イエス様もその洗礼を受けられました。バプテスマのヨハネの洗礼は「悔い改めの洗礼」と言われ、繰り返し受けることが出来、いわば罪を悔い改める「みそぎ」のようなものでした。しかしイエス様に由来する洗礼は、聖霊による生まれ変わりの洗礼で、これはただ一回だけの洗礼です。聖霊によって罪を洗い清められ新しく生まれた者は、繰り返して洗礼を受ける必要はないのです。ですから、ルーテル教会では教会を変わったからと言って洗礼を受けなおすことはありません。個人的なことですが、私は高校2年生の終わりに洗礼を受けました。クリスチャンホームではありませんでしたが、幼少期から教会に通っていていずれは洗礼を受けたいと思っていました。そして洗礼を受けると何か劇的な変化が起こるのではないかと内心ドキドキワクワクでした。しかし洗礼を受けても何も起こりませんでした。正直がっかりしました。今考えると当然のことでした。洗礼は聖霊によるものです。洗礼は体験的自覚的に何かが起こるわけではありません。聖霊の働きはおまじないのように奇跡的な変化をもたらすものではないからです。ですから皆さんも洗礼について何か特別なことが体感的に起こっていないからと言って、聖霊の効果について疑う必要はないのです。洗礼は聖霊によって神の業が静かに時には衝撃的に働くのです。それも人の気づかないような仕方でです。

次に聖餐式です。これは今日の福音書の日課に関係してきます。イエス様は「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」と言われました。これには当然反発があります。それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。すでに先週読んだところですが、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」とつぶやいています。おまけに命のパンである自分の肉を食べるなら永遠に生きるとまで言っています。私はこの言葉を聞くとどうしてもアンパンマンを思い出してしまいます。アンパンマンは元気のない人を見ると自分の頭をちぎって人に与えその人を元気にするのです。初代教会は早い時代から礼拝の中に聖餐式を取り入れました。そのもともとの起源は、いずれの福音書に書かれている最後の晩餐の出来事です。イエス様が十字架にかかられる前に、弟子たちと食事をされ、私たちもこの後聖餐式を行いますが、イエス様はパンと葡萄酒を取り、「私のからだ」「罪の赦しの血」として弟子たちに与えられた最後の晩餐の出来事を、教会は聖餐式として礼拝の中で保ち続けてきたのです。初代教会の時代の人々はキリスト教徒を非難するために彼らは人の肉を食べ、血を飲んでいると非難しました。本来歴史的には、礼拝「ミサ」はこの聖餐式を含んだ礼拝のことを言います。そこでプロテスタントの主流となっている礼拝を「み言葉の礼拝」と言っているのです。
ただ聖餐式と言っても簡単ではありませんし、すべての教会が共通理解を持っていいるわけでもありません。カトリック教会では、聖餐式の設定辞、イエス様の「これは私のからだである。これを罪のために流す私の血である」ということばが語られた瞬間に、それはもはやパンと葡萄酒ではなく、キリストのからだ、キリストの血と変化すると考えています。それを実体変化と言います。それはそう見えなくても、なにがなんでもそうなのです。ですから、一旦聖別されたものは時間がたとうがどこに持ち出されようとも、それはキリストのからだであり、キリストの血そのものなのです。それは絶対に譲れないことなのです。ちなみにカトリック教会の礼拝堂お御堂の前の方に、赤い小さなランプがともっていることがあります。それは聖別されたキリストのからだと血がありますよというしるしだと聞いたことがあります。プロテスタントはそこまで言いません。大切に扱われなければならないことはもちろんそうなのですが、カルヴァン派主に日本基督教団ですが、それは象徴であるとの象徴説を取ります。私たちのルーテル教会は、象徴ではなく、聖餐式の中で語られるその設定辞のことばと共にキリストがおられると考えます。これをキリストの現臨と言い、現在説あるいは共在説といいます。ですから、時間がたって場所が移ってそのパンと葡萄酒を用いて他のところで聖餐式を行う時には、また設定辞が必要なのです。

さて、聖餐式についての歴史や教派についての理解の違いを簡単に見てみました。ここではその意味、そして私たちにとっての聖餐式とは何かを考えてみたいと思います。ヨハネ6章56節でイエス様は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」と言われています。ここではっきりすることは、聖餐式によって、パンと葡萄酒をいただく者は、イエス様と一つになるという事です。私たちの内にキリストが生き、キリストの内に私たちが生きるのです。つまり神様と私たちが一つとなることです。そこには何の悩みや迷い、苦しみもありません。神様の平安があるだけです。それが私たちにとって必要なことであり、私たちが求めるものです。ただ残念なことに、そこには私たちの罪が立ちはだかります。私たちの罪は、イエスキリストの十字架の血によってゆるされました。しかし、私たちが持っている罪が繰り返し私たちをイエス様から離そうとするのです。私たちの罪は、私たち自身を神様に明け渡すことを拒み、自分を神としようとするのです。このために私たちは依然として罪のとりこになっています。しかし繰り返して言いますが、私たちの罪はイエス様の十字架の血によって贖われ、ゆるされています。聖餐式はそれを確認し、私たちをイエス様に引き戻すのです。そしてキリストのからだと血とをいただいて、イエス・キリストと一つになるのです。そのためには信仰が必要です。信仰がなければ、それはパンと葡萄酒にすぎません。だから教会は信仰とそれを証しする洗礼を要求するのです。

神様を信じることは何か条件があるわけではありませんし、人の努力によってできるものでもありません。すべての判断、すべての事柄を神様の導きに油寝ることです。すべての結果は、神様が導いてくださいます。一人でも多くの方が洗礼を受け、神の家族として聖餐にあずかることが出来ることを願っています。