2024年8月4日 説教 松岡俊一郎牧師

命のパン

ヨハネによる福音書 6: 24 – 35

人間の歴史は争いの歴史と言ってもいいと思います。人の罪の姿を現わした創世記の創造物語でも、カインとアベルの兄弟の争いから、人同士の騙し合い、国と国との争いが赤裸々に描かれています。
今週は広島の原爆記念日と長崎記念日を迎えます。太平洋戦争が終わって79年経ちます。時がたち、二つの原爆、太平洋戦争についての話題が少なくなってきています。今はむしろ自然災害に関心が向いています。しかし戦争がなくなったわけではありません。ロシアのウクライナ侵略、イスラエルによるパレスチナ・ガザ地区への攻撃、そして最近になってイスラエルとイランの緊張が起こっています。背景には宗教的な対立があり、両国とも核兵器を持っていますので心配です。

さて、イエス様が五つのパンと二匹の魚で5千人以上の人々の空腹を満たされた奇跡は、すべての福音書記者が何度も記しているように、人々にとって衝撃的であったと思います。イエス様のところに集まってきたガリラヤ湖周辺の人々は、決して豊かな人ばかりではなかったはずですから、肉体的な空腹を満たすという奇跡は、毎日の生活や暮らしに苦労していた人々には希望を与えたのです。しかしイエス様が意図されていた奇跡の意味が正しく人々に伝わったかどうかは別です。むしろ理解していなかったと言っていいと思います。6章28節では「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」とイエス様は指摘されています。人々が捜していたのは、自分たちを目の前の貧しさや飢えから解放する人でした。しかしイエス様は一時的に人を救うのではなく、まことの命を生きるようにするためでした。「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった」と言われるように、イエス様にとっての命とは、生と死によって限界づけられた限りある肉体的な命ではなく、父なる神様との関係の中で生きる命でした。この誤解は、私たちも気を付けなければならないものです。私たちも一時的な平和や願いが満たされるようにと祈り求めるからです。まず願うべきことは、私たちの欲求ではなく、神様との関係の中にある平安
であり、命です。人は神様との関係の中でこそ本当に生きると言えるからです。

イエス様は「わたしは天から降って来たパンである」と言われました。ここには二つのことが言われています。一つはイエス様が天から降ってきたということと、もう一点はイエス様がパンであるということです。ユダヤ人たちは、初めのこと、イエス様が天から降って来たことを問題にしました。彼らはイエス様の出自、ヨセフの息子で父も母も知っていると言います。マタイによる福音書の13章55節では、奇跡を行ったイエス様に対して、「この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちはみな、我々と一緒に住んでいるではないか。」と言っています。人としてのイエス様にだけ注目して、知っているということが、かえって人々の目をふさいでいるのです。ヨハネ福音書は、冒頭で「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と言っています。これがイエス様の本性です。人間としてのイエス様はその一面でしかありません。人々はこの一面に捉われてイエス様の本当の姿を見ることが出来ないでいるのです。

もう一点は、イエス様がパンであるという事です。これは私たちには聖餐式を思い起こさせます。昨年から聖餐式をすることが出来なくなって寂しい限りですが、聖餐式は礼拝の中心の一つですし、亡くなられた方々と私たちを結ぶ天の食卓との交わりの時でもありますので、近いうちに再開することを願っています。最後の晩餐の夜、イエス様はパンと葡萄酒を取り、「これは私の体である、また罪のゆるしの血」と言われ、弟子たちに与えられました。ここでは目に見える形ではパンと葡萄酒・ぶどうジュースですが、イエス様が何か物を与えるのではなく、命のパンとして自らを私たちに差し出し、真の命を与えられるのです。その与え方は言うまでもなく、十字架にかかることによって私たちに命をささげられるのです。人の目には敗北にしか見えない十字架の死が、人を永遠の命へと導くのです。十字架の血によって清められた者はイエス様を食する者です。イエス様はこのパンを食べるならば、その人は永遠に生きると言われます。それはイエス様を信じる者が、肉体の死という限界を超えた永遠の命に生きることが出来るからです。そこは時間の枠を超えた信仰の世界です。この信仰の世界に生きることが、私たちに用意された永遠の命です。

私たちにとって確かなことは、イエス様が私たちを永遠の命へと導いてくださっているという事です。どんなに不確かな時であっても、十字架による救いは確かなことですから、私たちはそこだけをしっかりととらえていきたいと思います。私たちが平和を求めていくことは祈りによってしかできません。武力ではエスカレートすることはあっても全く解決が出来ません。しかし私たちはどこまでも神様の愛を信じて、それを祈り求めていくのです。