2024年7月7日 説教 松岡俊一郎牧師

送り出される

マルコによる福音書 6: 1 – 13

私達の常識では、何か働きをはじめるには、それなりの知識を身につけ、訓練をし、精神的にも十分な心備えをすることが大事だと考えます。そうしないと対応できなかったり、失敗したり気持ちも怖気づいてしまうからです。専門的な技術を必要とする職業などは、特にその訓練を怠りません。たとえば消防士などは、自分の出番がないときであっても、彼らの出番はないに越したことはないのですが、朝の始業点検に始まり、特殊なトレーニングに余念がありません。彼らほどに特殊で専門的でないにしても、どんなことであれ、それなりに教育を受けて事は始まるのです。

さて、弟子たちがイエス様によって選ばれたことが書かれているのは、今日の福音書の日課から数えて、わずか3章前の3章13節です。この間にどれだけの日数がたったのかは、聖書を読むだけではわかりません。たぶんそれは何ヶ月という単位であって何年という月日ではなかったと思います。しかし今日の日課では、弟子となってまだ日の浅い弟子たちが、二人づつではあっても、彼らだけで伝道の旅に送り出されているのです。確かに彼らはイエス様といつも一緒にいて、語られる言葉を聞き、数々の奇跡を目の当たりにしていました。しかしそれは、聞いていただけであって、見ていただけであって、彼らは伝道のための訓練らしい訓練は何も受けていないように思われるのです。その意味ではあまりに早すぎる、無謀すぎるように思えます。
しかし、イエス様はそんな彼らを容赦なく宣教へと送り出される。それも周到な準備をして行けというのではなく、汚れた霊に対する権能だけを授け、「旅には杖一本の他には何も持たず、パンも袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして下着は二枚着てはならないと命じられた」のでした。現代人の私たちにしてみれば、さしずめ携帯電話はスマートフォンを持ってはならないという命令のようなものかもしれません。特に若い人にとってはそれらなしには考えられないほど厳しい命令と言ってもいいと思います。
ここでは杖と履物だけは許されています。狼から羊を守る羊飼いの杖からもわかるように、杖はもともと蛇や獣から身を守るためのものでした。旧約聖書を見てみますと、出エジプト記では、モーセの杖は、ナイル川の水を血に変え、カエルやぶよ、雹やイナゴを発生させました。荒れ野では杖を使ってメリバで岩から泉をわかせるという奇跡が行なわれています。つまり聖書の中では杖とは、身を守る道具にとどまらず、神様の力と働きのしるしでもあったのです。何も持たない、ただ杖だけは持っていいということは、自分の力を頼みとしないこと。自分たちの小手先の力に頼るのではなく、神様の力に信頼しつつ、与えられた務めを果たすようにということなのです。

こう考えると経験の浅い弟子たちに、何も持たせずに伝道の務めを託される意味がわかってきます。どんなにたくさんの知識や道具を身につけても、それは神様の力や働きの前では不十分なものでしかありません。私たちは何かを持っていると安心しますが、しかし持っていると必要以上にそこに頼ろうとします。創意工夫など生まれません。
しかし神様の働きは、神様ご自身の力が現れる場所であり、私達の生半可な知識や小手先の技などは力を持ちません。むしろ私たちが持とうとするものは、時として神様への信頼を忘れさせる結果をもたらします。しかし、何もなくても神様ご自身に信頼するならば、すべてが与えられ、満たされるのです。パウロはピリピ3: 5以下で、自分の今までの人間的な誇りが、キリストを知ってからは、塵あくたのように思っていると述べています。自分の力や経験を頼りとするのではなく、ただ主への信頼こそが、神様から託された務めを果たす道なのです。
わずかな備えしかするなということは、臆病で失敗を恐れる私たちには、大変厳しい命令です。しかしそれは同時に大きな慰めでもあるのです。最初に申し上げたように、私たちは何事にも十分な知識や技術を身に着けることを大事に考えますが、必ずしもそれが十分にできるかというとそうではありません。神様の福音伝道を務めとする牧師も、ある程度の学びや訓練をつんで現場の教会に出て行くのですが、それは教会の働きや日常で出会うことのほんの一部でしかありません。むしろ神学校で学ばなかったことがほとんどです。研修があっても、それは牧師の働きや生活の一部を分かち合うに過ぎません。多少の知識は身につけたとしてもそれはすぐに使い果たしてしまいますし、説教にしても牧会にしても、神様のことばを語る、人と向き合うということは、到底知識で太刀打ちできるものではないのです。

教会には信徒説教者制度があります。そのためのかつては教区の講習会もありました。制度としてはそれなりの訓練を求めますが、それ以前に皆さんの気持ちの中には、自分は人に聖書のことを話しするなどとても出来ないという臆する心があるのではないでしょうか。説教どころかお祈りでさえも人前ではできないとお思いの方もあるかと思います。しかしイエス様は、備えの大小を問題にされないのです。たとえ十分でないと思えるようなものでも、ご自分の働き人として用いられるのです。たとえその歩みが緊張して戸惑ったりしても、張り切って出発したものの道を間違えたり、伝える内容より持ち物に気をとられたり、伝える内容を十分に聞かず自分の関心ごとを伝えたり、問題にぶつかってすぐに挫折してしまっても、主は私達に託し、派遣し、働きを見守り続けておられるのです。

福音書の日課を読み進めていくと、たとえ神様によって命じられた伝道の業であっても、必ず成功するとは限らないことを悟らされます。むしろ困難なことが多いことを知ります。弟子たちの言葉が受け入れられないときのことが語られているからです。そしてイエス様ご自身もそれを十分知っておられます。今日の日課の直前では、イエス様は故郷のナザレで受け入れられなかったのです。もっと言うと、理由はどうであれ、イエス様が伝道に失敗されているのです。このようにイエス様はすべてを知った上で、弟子たちを遣わしておられます。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまでその家にとどまりなさい。しかしあなた方を迎え入れず、あなた方に耳を傾けようともしないところがあったら、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
たとえ神様のことばであっても聞いてもらえるとは限らない。むしろ宗教的な事柄に人は心を閉ざすことが多いのです。職場では宗教的なことを語るのはタブーです。宗教に警戒感を持つ風潮の中で私たち自身もつい、聖書のこと、教会のことを話すことをためらってしまいます。

イエス様は、伝道の難しさを知っておられました。そこではむしろ自分で何かをしようとするのではなく、主にすべてをゆだねるように勧めておられます。足の塵を払い落とすことは、ユダヤ人たちが異教の地への旅行から戻ったときに、行なわれていた習慣だそうです。それはここでイエス様はその習慣を例に挙げ、聞く耳を持たない者との関係を絶つことを勧め、その後のことは主が引き受けてくださるというのです。私たちはうまくいかないからといって、できないからといってくよくよする必要はありません。すべては主が引き受けてくださいます。ですからイエス様を信じる者すべてが、結果を恐れるのではなく、ただ主に信頼して、悔い改めと神の国の到来を告げ続けたいと願うものです。
キリスト者はすべて伝道に導かれています。それはいわゆる伝道プログラムだけでなく、生き方や生活そのものがキリストを証しする生活なのです。それは重荷ではありますが、その重荷もキリストが背負ってくださるのです。こんな自分でもキリストの手足として用いられることの喜びを感じたいと思います。