2024年6月30日 説教 田島靖則牧師

安心して行きなさい

マルコによる福音書 5: 21 – 43

会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきり に願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イ エスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。

「会堂長」というのは、当時のユダヤ教会堂で行われる礼拝のディレクターであり、会堂の管理者でもありました。「会堂長」自身が、礼拝の司式や説教を行うわけではないので、キリスト教の司祭や牧師とはちょっと違います。一つのユダヤ教会堂には、3 人の責任者がいて、「会堂長」もその構成メンバーだったようです。ヤイロというヘブライ語の名前は、こういった奇跡物語にぴったりの名前で、「彼は照らすであろう」「彼は起こす であろう」という、物語の結末を予感させる意味を持っています。そのユダヤ教の指導者である人が、まだ評価も定まらない新しい宗教的指導者であったイエスに頭を下げるというのは、極めて異例なことでした。ユダヤ人社会の中で、人望も 社会的地位もあったヤイロが、対面をかなぐり捨ててでも強く望んだことは、病気の娘が 癒やされることでした。

「わたしの幼い娘が死にそうです」という表現に、違和感を抱く 人もいると思います。彼の娘は「もう十二歳になっていた」と説明されていますから、「幼い」という表現は間違いなのではないか?と考える人も少なくありません。確かに12 歳は、もはや幼くはない年齢だと思います。実は他の二つの福音書、マタイとルカに収録さ れるこのお話では
「幼い娘」という単語は使われていません。ただ単に「娘」と書かれて いるだけです。これをもって、福音書記者マルコが使用する単語を間違えたのだと説明す る聖書学者もおります。しかしここは素直に、父親であるヤイロの心情に共感すべきだと 思うのです。ヤイロにとって愛する娘は、たとえ 12 歳になっても「幼い娘」と呼びたくなる存在だったのでしょう。娘が病気で弱り切っていたなら、尚更のことです。「おいでになって手を置いてやってください」という願いも、独特です。「手を置く」 という行為は、日本語でも「手当する」つまり「手を当てる」という表現が治療行為を意味するのと同じです。人間の手には、もともと怪我や病気を癒す力が備わっていると説明する人もいますが、私にはよく分かりません。東洋医療で行われる「お灸」のような効果が期待できるのでしょうか?ただ、手を置いてもらうことで大いに慰められ、温かい気持ちになれるだろうことは想像できます。

さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の 服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。

ここにもう一人、イエスと出会うことを切望する人物が登場します。12 年間も病気に悩む女性です。彼女はこの 12 年間、何度も期待しては裏切られてきた。失望を味わったのは 一度や二度ではありません。全財産を治療費に注ぎ込んでも、病気は一向に良くならなかったのです。彼女にとってイエスはどのような存在だったのか、福音書は詳しく説明しておりません。12 年間、あれこれたくさんの治療法を試してみたけれど、どれも効果はな かった。イエスが病気で困っている人を助けていると噂で聞いた彼女は、イエスに対して それほど大きな期待を抱いていたとも思えません。イエスは「特別」なのだと、果たして 彼女は考えていたのでしょうか? 信仰とは、不思議なものです。「確かな証拠があるから信じる」という人は少ないと思うのです。理詰めで「信じられる根拠」をたくさん探して、それが一定の数値を超えてい たら信じるに値すると判断する。そんなやり方で信仰を獲得する人は、多くないはずです。彼女の信仰は、「イエスの服にちょっとだけ触れてみる」という大変消極的な方法で表明されたのです。この行為は果たして「信仰告白」と言えるのでしょうか?私たちが礼拝の中で、使徒信条やニケア信条を唱えるのと同じように、彼女は群衆の中から必死になってその手を伸ばしたのでしょう。

すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた・・・イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべ てをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安 心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

イエスの服に触れたのは、彼女一人だけだったのでしょうか?そうは思えません。群衆の中からは、たくさんの人の手がイエスに触れるために差し出されていたはずです。もちろんそのほとんどは、興味本位で伸ばされた手だったに違いありません。でもその中に、深刻な思いを持って差し出される手があったことを、イエスは見抜いておられた。それが 「信仰」と呼ぶに相応しい思いを伴った手であることを、キリストは理解されていた。病気が癒やされたことを知った彼女は、期待していた結果であるにもかかわらず素直に喜べないのです。自分がその奇跡を受け取るのに相応しい人物であるとは、思えなかったからでしょう。そんな彼女に向かってキリストは言われます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。

家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取っ て、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。

ヤイロの娘が死んだという知らせを受け取ったイエスは、あえてその知らせを聞き流します。その時のヤイロの気持ちは、どうだったのでしょう?「娘を助けたい」という切実な思いと、「もう手遅れだ」という現実の間で揺れ動いていたはずです。ここでもイエス は、「揺るぎない信仰」を求めてはおられないのです。奇跡は誰にでも起こるのもではありません。それでもこのお話を通して、私たちに求められるのは「真摯な思い」それだけなのであって、品行方正な「正しい信仰」ではない!と知ることが出来ます。神に向かう 「真摯な思い」があれば、私たちもいつか奇跡を目撃することができるかもしれません。