2024年6月23日 説教 鈴木亮二氏 (信徒)

嵐の中でも

ヨブ記 38: 1 – 11、マルコによる福音書 4: 35 – 41

ガリラヤ湖の大きさは約166km2です。洗足池なら約400個分、土地の広さで考えると大田区・品川区・目黒区・世田谷区を合わせた広さよりも少し大きいくらいです。湖と言ってもかなり大きいことがわかります。ガリラヤ湖は死海と同じくかなり低いところにあり、海抜で言うと約マイナス200m、すり鉢状の地形の底の部分で、山から吹き下ろす風によって時折嵐が起こっていたといわれています。
イエス様と弟子たちが舟を漕ぎだして、しばらくするとそのような突風が起こりました。弟子たちにはペトロのようにガリラヤ湖で漁師をしていた者が何人もいましたが、そんな弟子たちも死ぬことを覚悟するような突風です。船はかなりひどく揺れたことだと思います。
船に乗っていてその船が嵐に遭って沈みそうになってしまったという経験がある方はいるでしょうか。漁船に乗るような人でない限り、そのような経験はほとんどの人はないでしょう。例えば10mの波が休むことなく続くのは、ジェットコースターに何回も繰り返し乗るとか、高層ビルにある高速エレベータに乗って何度も上下を繰り返すようなものでしょうか。想像するだけで気持ち悪くなってしまいます。

沈みかけた舟を何とかしようと、弟子たちは必死でした。そんなときにイエス様が舟の艫で眠っているのを見つけます。自分たちが必死に働いているときに寝ている姿を見ると、弟子たちが不満の言葉をぶつけてしまうのも何となくわかる気がします。もしかすると舟を出すときには風が強くなりそうな予兆があったのかもしれません。それでもイエス様が向こう岸に行こうと言われたので、不安を抱えながらも舟を出したのかもしれません。イエス様が一緒に船に乗っているのだから、嵐にはならないだろうと思っていたのかもしれません。たとえ風が少し強くなっても、自分たちが働いている後ろでイエス様が見守ってくれれば嵐は乗り越えられると思っていたのかもしれません。
そんな弟子たちに対して、イエス様は立ちどころに嵐を静めます。「黙れ、静まれ」という言葉は、まるでイエス様が悪霊に取りつかれている人から悪霊を追い出すような言葉です。イエス様が嵐を静めたというのは、弟子たち全員に取りついていた悪霊を追い出したというのかもしれないと思ってしまいます。
嵐が静まると、イエス様は弟子たちを𠮟りつけます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」という言葉は、自分のことを信じようとしない弟子たちを見捨てるような強い言葉です。見捨てるのであればそのまま舟を沈めてしまったでしょう。不出来な弟子はここで一掃して、新たに弟子たちを集めても良かったのかもしれません。しかし、イエス様は弟子たちを見捨てたわけではありません。イエス様に対して不平を言い募る弟子たちに対して、最初に行ったのは叱りつけることではなく嵐を凪にすることでした。イエス様が弟子たちを叱った言葉は「怖がることはない。私を信じなさい。」ということのように聞こえます。

私たちは、様々な願い事を神様に祈ります。こんなことが叶いますように、と。でもそんな願い事は、多くは叶わないことがあります。こんなに一生懸命祈ったのに何で願いが叶わないのかと悩むことは多いと思います。そんなとき、この神様はダメだ、別の神様にお祈りしてみよう、という人もいると思います。それは正しいことでしょうか。正しいことではありません。願い事をすべて叶えてくれるのが良い神様だ、というのは、神様に一生懸命祈っているように見えても、神様は自分の願い事を叶えるために働く僕のような存在になっています。神様がそのような存在であれば、お祈りする神様を取り換え引き換えしてしまうのでしょう。
神さまのみ旨、神様の思いは私たちにはわかりません。私たちの考えをはるかに超越しています。この世界にも、なぜ神様がこんなことが起こるのを許しているのかと思うことがあります。私たちには推し量ることもできないことが多くあります。私たちが理解できない、そんな神様をどう考えれば良いか、私たちは迷ってしまうことがあります。2週前の礼拝で、松岡先生は「神さまは人の理解を超えたお方です。そのお方の前で、人は頭を垂れるべきです。」と説教されました。私はその通りだと思いました。人間はすべてのことを理解しているわけではない。理解できないことは拒否する・否定するのではなく、理解できない者に対して静かに頭を垂れるということは大切なことだと思います。私は大学生のある夏休みに洗礼を受ける決心をしました。その年の夏休み、一人で北海道旅行をしました。函館から札幌に向かう汽車の窓から見える海の景色、緑色の海に圧倒されました。こんな世界は人間の手では創り出すことはできない、神様のような超越した存在でなければ創り出すことはできないだろう、とただ静かに頭を垂れることしかできませんでした。そして神様を受け入れることを決心しました。
神様のみ旨は人間には理解できないということは、今日の第一の日課でも語られています。ヨブは神様のみ旨に沿って暮らしていましたが、あるときから家族に多くの不幸が襲います。ヨブ自身も体中にできものができ、全身がかゆみのために布をまとうこともできない状態になってしまいます。なぜこんなことになってしまったのか、なぜ神様は自分たちにこのようなことをするのかを悩み、友人たちとも議論を重ねます。そんなヨブに対して神様は語りかけます。神様が天地創造をしたときのことをお前はどれほどわかっているのか、と。「ここまでは来てもよいが越えてはならない」というのは、人間は神様のみ旨をすべて知ることはできない、と言われるのです。

私たちができるのは、神様のみ旨の前に頭を垂れるだけです。しかし何もわからないことに対して何もできない、ということはとても難しいことです。しかし、今日の福音書には理解できないことを信じるための助けがあることが書かれています。それはイエス様です。突風によって今にも沈みそうな舟の中で、イエス様は一人だけ水の上を通って舟から去ることはしませんでした。イエス様は舟の艫で眠っていました。艫は舟の一番後ろの部分です。舟が沈没するのは艫の部分からというのが多いそうです。映画「タイタニック」でも、タイタニック号は船首を持ち上げるようにして艫から沈没していきました。嵐の中でイエス様は舟の中で最も危険な場所にとどまっていました。イエス様はどんなときでも私たちと同じ舟の中にいらっしゃるのです。
私たちは弟子たちと同じようにイエス様がいつも隣にいることを忘れてしまいます。順調な生活をしているときには、ああ、イエス様がそばにいてくれるのだなと思えるかもしれません。しかし逆境の中にあればあるほど、その環境に対応することに思いがいっぱいになり、一人だけで戦ってしまうような孤独を感じてしまいます。弟子たちも嵐の中で何をすればよいかと右往左往し、そんな中で眠っているイエス様を見つけてつい不平を言ってしまいます。嵐が止んだ後で畏敬の言葉をやっとするのです。イエス様がいつも私たちの隣にいる、私たちにとっては当たり前に思えることも、いざというときには私たちの頭の中から抜け落ちてしまうことが数多くあります。

そんな私たちが、嵐の中でイエス様を思い出せるように、二つの歌を紹介して説教を終わりたいと思います。つらいときにも、すぐに口ずさめる歌があるとイエス様が隣にいてくださることを感じることができるのではないでしょうか。
1曲目はロッド・スチュアートが歌って有名になった「セイリング」という曲です。最後の節を日本語に訳すと「私たちは船出する/故郷に戻るため/海を渡る/私たちは船出する/嵐の海を/あなたのそばにいるために/自由であるために/おお、主よ/あなたのそばにいるために/自由であるために」。メロディも好きですが、あなたのそばにいるために嵐の海でも船出する、という歌詞も大好きな曲です。
もう1曲は教会讃美歌の336番です。この歌は私が好きな讃美歌のひとつです。1節の歌詞が大好きなのですが、3節の言葉も大好きです。「主イエスのみ名こそ 船路のひかり/ゆく手はまくらき 嵐の海も/恐れず進まん ただ主によりて/天なる港に やすけく着かなん」。
イエス様が凪のときも嵐のときも私たちの隣にいらして、天の国に導いてくださることを信じて、日々を過ごしていきたいと思います。