2024年5月26日 説教 橋爪大三郎氏 (信徒)

三位一体は愛である

使徒言行録 6: 1 – 8、ローマの信徒への手紙 8: 12 – 17、ヨハネによる福音書 3: 1 – 17

三位一体とは何でしょう。
天の父、そのひとり子イエス・キリスト、聖霊。この三つがひとつの神である。キリスト教の中心になる教えです。でもこれは理解しにくい。理屈でわかろうとしても無理。三位一体は、キリスト教の大事な秘密で、神の恵みだと、教会では教えてきました。
さて、聖書を読むと、不思議なことに気がつきます。「三位一体はこれこれです」と、ずばり書いてある箇所がないのです。
イザヤ書の箇所、ローマの信徒への手紙の箇所、ヨハネ福音書の箇所。イザヤとパウロとヨハネの考えをのべただけで、言っていることがバラバラともみえます。
三位一体がキリスト教の正しい信仰だと決まったのは、ニケーア公会議のとき(紀元325年)。それまでは実にさまざまな考え方がありました。みな「異端」として一掃されました。聖書は、もっと前にできたので、三位一体が書いてなくて当然です。
ではキリスト教会はなぜ、三位一体の考え方を選びとったのか。それは三位一体が、自然な考え方だからだと思います。

聖書には、創造主の神/イエス・キリスト/聖霊が登場します。これらはどういう関係なのか。三つは別々にみえるけれど、そこには神の計画が貫かれているはずだ。初期教会の人びとは、そう考えたでしょう。すると三位一体はしっくりします。
キリスト教以外の一神教は、三位一体をとりません。ユダヤ教もイスラム教 も、イエス・キリストを救い主とも神の子とも認めません。聖霊も認めません。するとキリスト教徒には、どちらも正しくない信仰にみえます。でもこれが問題なのです。

今年アメリカの大学で、学生たちが抗議したり、学生同士で乱闘したりして問題になっています。ハマスとイスラエルの戦争がきっかけです。
パレスチナ支持の学生たちは言います。イスラエルのやり方はひどすぎる。病院や学校を攻撃し、罪のない市民や子どもが犠牲になっている。これは犯罪だ。そんなイスラエルとのビジネスで儲けた企業が、大学に寄附している。断ってほしい。私たちは、 にまみれた寄附を受け取れない。
いっぽうイスラエル支持の学生たちは言います。ハマスがやったことを見なさい。武装した集団が突然、イスラエルの民間人を無差別に殺害した。人質を連れ去った。許せないテロ行為だ。テロリストのハマスと戦うのは、自衛のためである。
パレスチナにユダヤ人がやってきて、イスラエルを建国しました。元からいたパレスチナ人は、土地を奪われました。

パレスチナ問題のおおもとは、ユダヤ人差別です。ユダヤ人はヨーロッパで、差別され続けてきました。襲撃されるたび、元いた場所から逃げ出しました。そしてドイツでは、ナチスの手で、六百万ともいわれる人びとがガス室で命を奪われたのです。
なぜユダヤ人は、差別されたのか。それは、イエス・キリストを認めず、三位一体を受け入れないから。キリスト教徒はユダヤ教を、一段低い宗教と憎んだのです。同じ理由でイスラム教も、一段低い宗教だとみてきました。
近代になると国境ができて、ビザがないと外国に逃げ出せなくなりました。ナチスに追われたユダヤ人は、ビザを求めて領事館に列をつくりました。結局ビザが手に入らなくて収容所に送られた人びとも多かったのです。いざという場合、無条件でビザを発行してくれる、自分たちの国が必要だ。こうしてアメリカの後押しで、イスラエルが建国されました。イスラエルは、世界中のユダヤ人にとっての命綱です。
周辺のアラブの国々と、戦争になりました。イスラエルの人びとは武器をとって戦い、国を守りました。パレスチナの人びとは、苦難の道を歩みました。ですから世界中に、イスラエル支持、パレスチナ支持の人びとがいるのは当然なのです。
バイデン大統領は言いました。イスラエル支持も、パレスチナ支持も、主張するのは自由である。アメリカは言論の自由の国だ。でも、暴力はいけない。
正論です。でも、きれいごとではないか。現地は戦争です。イスラエルの人びとは、政府が頼り。パレスチナの人びとは、政府が必要。どうしても実力行使になるのです。

この世界をもう少し平和にできないか。私は、三位一体について考えなおすことが、その出発点になると思うのです。
アメリカはユダヤ教に冷たかった過去が後ろめたくて、イスラエルを支持します。そのぶん、イスラム教に冷たい。若い世代の人びとは、そのまやかしを敏感に感じとり、パレスチナを支持します。
こういう状況で、キリスト教徒にできること。それは、三位一体の考えが、キリスト教だけでなく、ユダヤ教やイスラム教にもあるのだと考えてみることで す。
まず、創造主である神。これは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教に共通です。
つぎに、イエス・キリスト。イエス・キリストが地上に現れたのは、神が人類を愛し、その愛を実現するためです。では、ユダヤ教、イスラム教に、神の愛はないのか。おおありです。そのために多くの預言者や、ムハンマドが遣わされたのです。
では聖霊はどうか。聖霊は、人びとが神と交流できる回路です。聖霊があるから、神と対話し、神の恵みを受けられます。ユダヤ教やイスラム教に聖霊はあるか。人びとは祈りによって、神とつながります。この交流のはたらきは、聖霊と同じです。
結論として、ユダヤ教もイスラム教も、三位一体とは言わなくても、キリスト教の三位一体と同じことを考えているのです。

キリスト教は、三位一体を大事にしてきました。だからと言って、三位一体の考え方をとっていないユダヤ教やイスラム教が、正しくないと考えなくてもよいのです。そうすれば、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は互いに敬意をもつことができます。
三位一体を、ユダヤ教やイスラム教を攻撃する武器にしてはいけません。むしろ、共感するためのアンテナにしましょう。イスラエルの人びととパレスチナの人びとが争っているとき、冷淡な傍観者になるのでもない。どちらかにやみくもに肩入れして、憎しみをあおるのでもない。両方の人びとに共感して、争いを自分のこととして受けとめ、悲しむ。争いを解決する糸口は、そこから生まれるでしょう。
世界の人びとが、異なる信仰ゆえに困難な目にあっています。そんなとき、それを自分のこととして考えることかできる。これこそ、平和の基礎です。こうした能力を深めるなら、この世界が神さまの意思にそった、平和な世界に近づいていくと思うのです。